では今の困難な状況に対し、どうすればいいのか。なにより大事なのは、助けを求めている人たちの存在を、まず知ることでしょう。
私は20年以上、ニートやひきこもりの問題に取り組んできました。彼らは以前から存在していたけれど、ずっと無視されたままだったのです。それが「ニート」「ひきこもり」「不登校」などの言葉によって存在が知られるようになり、支えたいと考える人が増えていきました。NPOなども生まれ、当事者や家族に寄り添い、サポートする仕組みも作られています。支援者たちの地道な活動が、行政や社会を動かす力にもなりました。そのなかで強烈に感じたのは「支援する人を支援する」ことの大切さです。
国や自治体では規模が大きすぎて、個人にきめ細かく対処することは難しい。完璧な施策を国に求めることは無理です。もちろん、みんながみんな支援活動に直接携われるとも思いません。ですが、がんばっている支援者を支援することを意識してみれば、できることが何かある。今回の「ステイホーム」だって、医療従事者などの支援者の支援にまちがいなくつながっている。大事なのは社会全体での「支援者支援」です。
絶望の反対はユーモア
私は希望を考えるうち、絶望についても考えるようになりました。以前歌手の宇多田ヒカルさんが「絶望の反対はユーモアだと思う」と言っていたのが、記憶に残っています。
そもそもユーモアとは何か。『新明解国語辞典』(三省堂)には、「社会生活(人間関係)における不要な緊迫を和らげるのに役立つ、えんきょく表現によるおかしみ」とあります。毎日緊張ばかりしなくていい。ストレート一辺倒でなく、回り道もいい。「おかしみ」は、つねに悲しみと紙一重。ユーモアは「矛盾・不合理に対する鋭い指摘を、やんわりした表現で包んだもの」でもあります。
今、世の中から希望だけでなく、ユーモアもなくなっているのかもしれません。SNSの発達もあり、社会生活や人間関係の緊迫を高める情報があふれていて、不要な緊迫を和らげる話題があまりに少ない。
自分の失敗や挫折の経験、そこから得た教訓を、ユーモアを交えて語る人の言葉には、明日を生きるための希望が感じられます。
繰り返しますが、希望は、誰かから与えられるものではない。一人ひとりが苦労しながら大切に育んでいくからこそ愛おしい。釜石で数々の試練を経験してきた70代の方が、あるとき中学生に今の夢を問われ、「夢を持ったまま死んでいくのが夢」と笑って答えました。夢や希望は叶えることがすべてではない。追いかけ続けることが尊いのです。
これからもまた別の感染症の拡大はかならず起きるでしょう。災害もたえずおそってくる。完全な「安心」「安全」なんてないと、開き直るくらいがいい。
けれど希望は、つらい時期をくぐり抜けた経験の先にあります。今回も「苦しみを乗り越えたから、今がある」と笑って話せる日が、きっと来るはずです。