事件や芸能の取材を長年続けて来たレポーターの東海林のり子さんは、美智子さまを「女性たちの永遠の目標」と話します。同世代なら同じように経験してきた過酷な環境を人を思いやる気持ちへと変え、「現場」や日常で大切にし続けてきたこととは?

父より母の方がたくましかったあの頃

元気ですね、と良く言われますが、今年で83歳。美智子さまと同い年の私は僭越ながら、そのお姿を自分の体調と重ねてしまいます。たとえば、被災地の避難所で膝をついて皆さんとお話になり、立ち上がってお隣の方の前でまた膝をつかれる。あの上下動だけでも、どんなに大変か、実感できるのです。

それでもお疲れを見せず、つねに凜とした姿勢でいらっしゃる。そうしたお姿を拝見しますと、テレビの前の私もしゃきっと背筋が伸びます。

私が放送の世界に入ったのは、大学を卒業した昭和32年。ラジオのアナウンサーとしてニッポン放送に入社した2年後が“世紀のご成婚”です。会社は日比谷交差点に近く、パレードのラジオ中継をするのを同期と一緒にビルの屋上から見学することに。先輩方が中継する間、身を乗り出して「美智子さまーっ」と声をおかけしていました。

当時の報道で印象に残っているのが、お母さまの正田冨美さんのご様子です。上品で素敵なお顔立ちでしたが、晴れの日に、うれしさ溢れる表情のようにはお見受けできなかった。皇室にお入りになったらお里帰りもなかなか許されないといった話が伝わるにつれ、「愛する美智子さまのこれからを心配なさるお顔だったのだな」と納得がいきました。

あの世代の母親は、芯の強い人が多かったことを思い起こします。家族を抱えて戦争の時代を生き抜き、戦後の大変な食糧難を経験したのですから当然のことかもしれません。我が家も、父より母がずっとたくましかった(笑)。

戦時中、お米が統制下で手に入らないときに、母は遠くの農家まで着物と交換に行ったものです。警察に見つからないようお米をサラシの袋に隠して帯の下へ巻いて。へとへとになった母が帯をといて座り込んだ姿を、私は後年、自分が子どもを持ったときに思い出しました。「あれほどの覚悟で、子どもを育てていけるのだろうか」と身の引き締まる思いがしたのです。