相手のために何かをする満足感をお互いに
瀧波 伊藤さんは今、家事をまったくなさらないですか。
伊藤 もうホントに最低限だけですね。ところが! アメリカにいたときの話なんですけど、犬にはごはんを作っていたんですよ。
瀧波 ドッグフードを出す程度じゃないんですか。
伊藤 鶏ムネ肉が安いときに大量に買い込んで、自家製の塩レモンとパセリとバジルをよくもみ込んで、弱火のオーブンでじっくりと……。
阿古 普通に今日の夕飯に食べたい。それを犬のために……。
伊藤 友だちに笑われましたよ。自分でもなんでかな、と考えた。自分の好きなものを置きたいように置いて、好きなものを食べるって最高の生活なのに、って。
瀧波 ものすごく憧れます。
伊藤 4月から大学で教え始めたんですが、学生たちがもう、手がかかってしょうがないの。これ、なくした家族が帰ってきたような感じかな。なんというか、嬉しさもあって。母も父も看取って、最後に連れ合いが死んだときに、「もっと介護する年寄りはいねがー」っていう気分になった、あれと同じ。
瀧波 そういうものですか。自分の時間を好きに使える暮らしが手に入ったというのに。
阿古 たしかに、家事におけるせめぎ合いの部分で言うと、お互いにやってあげたり、やってもらったり、ということには、自分で自分のことをやるだけでは得られない満足感があると思うんです。
伊藤 家事は、しなくてよくなったらスッキリするけれど、ひとりの気ままな生活は、つるつるとして刺激に乏しい感じ。で、誰かのために何かをする。自分の手を煩わせる。自分以外のために頭を少し使う何かがほしかったのかもしれない。
瀧波 なるほど。ほどよい刺激、っていうところが大事なのですね。