家政婦として働き始めたばかりのころの志麻さん

「なにかが違う」に追い詰められて

帰国後、私は自分が惚れ込んで学べるレストランとの出合いを求めて、さんざん食べ歩きます。最初に働いた店は、名店として名高いレストランでした。ここで、尊敬するシェフから素材はもちろん、塩加減、火加減、味のバランス、市場での野菜や魚の選び方、水やガスも無駄にしない心がけまで、あらゆることを教わったように思います。

少しでも早く成長したくて夜も休日も店に一人で残り、睡眠時間は毎日3時間程度。ボロボロのアパートに住み、給料のほとんどを料理の本やフランス語のレッスン、映画や音楽、美術などフランス文化を知るための勉強に費やしました。実家にもほとんど帰省せず、たまに帰っても、分厚いフランス語の辞書を引きながら料理の本を読んでばかりいる娘に、両親もきっと呆れていたと思います。

でも、一所懸命に働けば働くほど、同僚と自分との温度差を感じるようになりました。料理に夢中になるあまり、自分のスタンスをまわりに押しつけ、どうしてもっと勉強しないんだろう、と考えては、一人で空回りしていく──。

同時に、当時流行していたフランス料理のスタイルが、自分のつくりたいフランス料理とはなにか違う、という得体の知れない違和感もどんどん膨らんでいきました。3年働いて、私はお店を辞めました。

はじめて味わった挫折の反動は、ことのほか大きかった。一度は料理の現場を離れてみたものの、知人に人気のビストロを紹介されて、再び料理人として働くことになりました。

シェフが手掛けるのは、留学時代にフランスの各家庭で食べたような、シンプルで飾らない料理。「そうそう、こういうことがしたかったんだ」と嬉しくなった私は、ここでも朝から晩まで脇目もふらずに働きました。

シェフの作業を見て、必死に記憶し、その味を再現するのはとてつもない集中力のいる仕事です。ここでも、まわりの人の意欲が足りないように感じられて、私はシェフに「2人で働きたい」と伝えました。

当然、シェフの仕事量も増えるのに、シェフは私の気持ちを受け入れてくれて、私はますます必死に働くようになりました。手のしびれや気管支喘息といった身体の不調に次々襲われても、それでも私はここで働くことが楽しかった。一方で、かつて抱いた「なにかが違う」という違和感を、ここでも拭い去ることができませんでした。

皆さんには、フランス料理は堅苦しい、高い、マナーが厳格……というイメージはありませんか。最初に働いたレストランは、服装やマナーを気にせずに食事を楽しめる店ではありませんでしたし、2軒目のビストロはカジュアルなスタイルとはいえ、やはりワインを料理に合わせて、といった暗黙のルールがありました。

私は山口県の田舎で生まれ育っています。フランス料理がそういう田舎の人たちまで気軽に楽しめる料理かと聞かれれば、違うとしか言えなかった。子どもも入店できないし、すべての人が楽しめる料理ではない気がして、それがとても寂しかったんです。私が料理に求める「あたたかさ」が、ここにはない。「家庭料理をつくりたい」という自分の思いには気づいていましたが、レストランで提供する、という仕組みに疑問を感じている以上、働くことが日に日に苦しくなりました。

誰より身近に感じていたはずのシェフにさえ相談できない。10年働く間に、私は精神的にどんどん追い詰められていきました。そして──これは本当にやってはいけないことなのですが──ある日突然「長い間お世話になりました」という置き手紙をして、私は店を辞めてしまったのです。