「スウィート10」にはダイヤより活字
初めて小説を読んだのは中学2年生のときです。当時、私の実家は1階で床屋をやりながら、2階をアパートにして貸していました。住人が引っ越して、空いた部屋に掃除のために入ったら、窓辺に1冊だけ文庫本が残されていたんです。それが原田康子さんの『挽歌』でした。舞台は私が生まれ育った釧路の街。自分が暮らす街が物語になっているのはこんなに面白いことなのかと、掃除も忘れて読みふけってしまいました。
それが、小説に興味を持ったきっかけです。そこからほかの小説も読み始め、自分も書いてみたいと思うようになりました。とはいえ、10代の頃は家業を手伝いながら生活していくだけで精一杯。24歳で結婚してからは、家事と子育てに追われて。30代になってようやく自分の時間ができたので、現代詩のようなものを少しずつ書いていました。
その流れが変わったのが34歳のときです。「結婚10周年のお祝いに、何か記念になるものを」と夫が言ってくれた。当時流行していた「スウィート10」でダイヤモンドの指輪などをリクエストするところでしょうが、私は何よりも自分の文章が活字になったところを見たかったので、「ダイヤより活字!」と夫にねだった。それで夫が虎の子の50万円を出してくれ、詩集を自費出版したのです。分割払いでした。(笑)
6歳年上の夫とは、高校卒業後、和文タイピストとして裁判所に勤めていた22歳のときに出会いました。彼の仕事は裁判所の書記官で、とにかく顔と声が100%私の好み。目がくらんでいたのかもしれませんけど、顔は坂東玉三郎で声はジュリー。「土日はパンツを穿かない男」と言われていたほどモテモテだったのですが(笑)、追いかけて追いかけて、24歳のときにようやく結婚してもらったのです。
結婚するときに彼が出した条件は、「外で仕事をしない、ピアスの穴を開けない、社交ダンスを習わない」。その理由は、25年たった今でも謎のままです(笑)。でも、文章を書くことに関しては特に反対されませんでした。価値観が似ていて、安心できる相手なので、落ち込んだときなどは一緒にいるだけで楽になります。
そんな夫の虎の子で出版した詩集が縁で、『北海文学』という同人誌からお声がかかり、主宰の方が私に「小説を書いてみたら」とすすめてくれた。そこから詩をやめて小説を書くようになり、37歳のときに文芸誌に応募して新人賞をいただいたのです。
でも、その後が長い道のりでした。受賞してから最初の単行本が出るまでに6年近く。その間、いくら編集者に原稿を送ってもボツばかりでした。お返事さえいただけないこともありましたが、支えになったのは子どもたちへの思いです。「お母さんは、もの書きになりたかった」と、過去形では言いたくなかった。もし途中で諦めてしまったら、彼らが人生で困難にぶつかったときに、「頑張れ」と言えなくなってしまうから。
初めて書店に自分の本が並んだときは、身が引き締まる思いでした。結婚以来ずっと専業主婦でしたから、1500円の新刊なんておいそれとは買えません。本は図書館で借りるのが当然だったし、ユニクロの服だって定価で買うことなんて滅多にない。1500円と言えば、家族4人が夕飯に豚すきを食べられる金額です。自分の本に果たしてそれだけの価値があるのかと、今でも常にそう問いかけながら原稿を書いています。