洋服をハサミで切り刻んだことも

「この人と結婚しなければ、私はもっと幸せになっていたはず」。そんな思いを抱えていた、由美さん(64歳)。5年前、夫(70歳)の定年退職をきっかけに、長年住んだ都内の自宅を売り払い、長野県に一軒家を購入した。そして、若い頃に取得した調理師免許を活かし、自宅兼店舗のカフェをはじめたという。

「年金だけでは老後資金が心もとないので、好きなことを無理のない範囲でしながら、多少のお小遣い稼ぎができればと思ったんです。メインの料理は私の担当。子どもの頃は、お菓子作りが趣味だったという夫がケーキとパンを焼き、洗い物をしています。知人からは、『一日中、夫と顔を突き合わせていて苦痛じゃないの?』と聞かれることもありますが、日がな一日、夫に家でダラダラされるよりよっぽどマシ。だって、家でトドみたいに寝そべっている夫を目にしたら、いくら好きなカフェの仕事でも、『私ばかりが老後資金のために忙しく働いているなんて不公平!』という愚痴が、いつかこぼれ落ちるはずだもの」

その実、由美さんは過去に、夫への不満が募り、「離婚」の二文字が頭に渦巻いた経験がある。親から継いだ看板製作会社を営んでいた夫は、55歳で会社を倒産させてしまう。その後、再就職するまでの2年間、家事も子育ても由美さんに任せきりで、遊び呆けていたというのだ。

「『この男は女房、子どもを養える器ではない』と、ほとほと呆れてね。何度となく夫の洋服を思いっきり踏んづけたり、ハサミで切り刻んだりして、ストレスを発散しました。苦しみながらも離婚しなかったのは、言うまでもなく、まだ高校生だった娘のため。娘に寂しくつらい思いをさせたくないという一心でした」

そして現在、夫婦の「接着剤」になっているのは、由美さんがはじめたカフェに集う地元のお客さんたちだそうだ。

「本当に、みなさん、温かい方ばかりなんです。移住してきた新参者の私たちに気さくに話しかけてくれて、知る人ぞ知る温泉やレストランなど、地元住民ならではの情報をたくさん教えてくれます。教わった場所には、休みの日に夫婦で必ず足を運び、思いきり満喫。またお客さんが店に来てくださった際の話の種にもなりますからね。なかには、自分の畑でとれた野菜や果物を差し入れてくださる方もいるんですよ。そんなときには、いただいた食材を使った新メニューの話で、お客さまも一緒に話が盛り上がるんです」

また、由美さんの住む地域には、お祭り、草刈り、炭焼きなど、男手の必要な行事が山ほどある。そういった行事に積極的に参加する夫の姿を見るたびに、「この男、けっこう役に立つじゃない!」と目を細めている由美さんだ。

「最近、お客さんから、『いつも仲のいい夫婦で、羨ましい』と冷やかされるんです。夏休み中、夫と子どもを連れて我が家を訪れた娘からも、『お父さんとお母さん、活き活きしてる。10歳くらい、若返ったんじゃない?』って言われました。相変わらず、『この人と一緒にならなかったら、もっと素晴らしい人生を送れたのかもしれない』という思いが湧き起こることもありますが、お陰様で、カフェのお客さんたちに、かろうじて夫婦らしく育てていただけたようです」