現在5人の子が生活するひろせホーム。子どもたちが安心して暮らせるようにと心を砕く

「名誉と資産と学歴がない」

20歳で結婚した夫の仕事の都合で故郷の北海道から千葉県に移り、ラーメン店を開いた。そこに客として来た児相の職員に、「千葉県でも里親の資格を取れるから申請してみないか」と促されたのだ。

「息子2人と娘を出産後、身体がなかなか回復せず、子どもたちは義母に育ててもらったようなものです。少し回復して、医療費を稼げればとラーメン店を始めたら、すごく丈夫になっちゃった(笑)。そこで子どもを自分で育てられなかった負い目もあって、社会的養護が必要な子を育てたいと思うようになりました」

1980年代までは、里親といえば子どものいない夫婦が養子縁組を前提に里子を迎える場合がほとんど。だからタカ子さんは養育里親を目指して申請するも、2度退けられた。その理由は、養子縁組里親に必要な「名誉と資産と学歴がない」から。

「ちょうどその頃から、厚労省が推進して、子どもを家庭の中で育てようという動きになったのです。それで3度目の申請が通り、88年に登録。翌年、最初の里子がやってきました」

その女子は「10代で肥満体なので、家庭的な指導をしてきちんと生活できるようにしてほしい」と一時保護所からやってきた。廣瀬家で実子たちとともに暮らし始めたものの、家出を繰り返す。異性との交遊も盛んだった。ある日、男性が「彼女の具合が悪いから来て」と駆け込んできた。タカ子さんは自転車で彼女を迎えに行き、そのまま産婦人科へ。性病を疑ったのだ。ところが意外な診断が出た。妊娠していて、すでに子宮口が開いている、と。

「驚きました。うちに来た時、すでに妊娠していたのです。児相でも大騒ぎになって。そのまま出産し、退院してから赤ちゃんと一緒に家に戻ってきました。産んだ赤ちゃんが里子2号。母子ともに預かりました。でも、子どもが子どもを産んでも育てられない。ママは3ヵ月で家出、赤ちゃんは養子縁組に出されました」