亡くなるまでずっと親友だった
──離婚後、シァンピさんとのご関係はどうだったのでしょうか。
お互いに、愛と理解と尊敬が離婚後のほうがいいかたちで深くなったと思います。彼は1982年に61歳の若さで亡くなるまで、私を精神的に強く支えてくれました。親友というより、“心友”。日本で『細雪(ささめゆき)』の撮影中に娘からの電話で彼の急逝を知らされたときはひどいショックで、私の人生のいちばん大事なものが失われてしまったと思いました。
親の離婚が娘に与えたショックは、計り知れないと思っています。父親を自分のヒーローと慕っていた娘には、12歳のときの私たちの離婚と、あまりにも早かった父との死別が今もふと翳(かげ)になって表情に見え隠れするのがつらいですね。
──今は日本にもお住まいですが、パリとふたつ、暮らしの場を持たれたのは、どのような理由があったのでしょうか。
直接の理由は、私が国連の親善大使としてアフリカの奥地にいたときに、母が亡くなったことです。私の帰りを待ちわびながら、息をひきとって……。その年の秋、娘が結婚しましたので、私という「母」にも去るべきときが来たのではないか、とちょっと淋しい思いで、両親が残してくれた古家に戻りました。パリの家はそのまま事務所として使っています。ヨーロッパでの仕事が多いので。どちらもすごく古い家ですから維持するのがたいへんです。
母は父が亡くなってから30年近くも私への愛だけで生き続けてくれたのに、死に目に会えなかったことに今でも胸が痛みます。
あれから16年も経ってしまいました。