転がっている石にだってすがりたかった

しばらくICUにいましたが一般病棟に移るのを待って、私はPCR検査を受け、自宅と病院との往復以外誰とも接触しない、という条件で付き添いを認められました。10月末のことです。そのとき予定していた私の仕事は見合わせて、病院通いが始まったのです。

朝は5時に起きて、自分のお弁当を3食分作り、犬を預けてから朝7時には病院へ入ります。夜7時まで付き添って帰宅。朝、病院に入る瞬間に、昇ったばかりの朝日がわずかに見え、帰るときには真っ暗です。夫が亡くなるまで2ヵ月ほど、そんな生活が続きました。

とにかく早く肺炎を治して人工呼吸器をはずして、オプジーボを投与して、それでよくなるんだ、と信じていました。でも、状態はよくならない。病室にいる間は、がんを小さくするというアロマオイルで朝からマッサージをしたり、病気がよくなるお祈りをしたり。

夫はそういうことをまったく信じない人なので、あるとき一生懸命お祈りしていたら「やめて」と言われました。「僕はそんなことしなくてもよくなるから」と筆談で。「わかった」と、その場では言いましたが、寝ているときにこっそり祈らずにはいられなかった。

祈祷なんて夫は信じない。私だってもともと信じていたわけじゃありません。でもね、もうそこらへんに転がっている石にだってすがりたかった。だって、どんなきっかけで奇跡が起きるかなんて、誰にもわからないもの、と。

付き添いを始めて最初の頃は筆談もできたし、人工呼吸器をつけていても機械を使って意思の疎通ができたので、いろんなことを話しました。

他愛のない話ですよ。私たちは大のサッカーファンなんですが、「久保建英が今にレアル・マドリードに戻るから、そのときは一緒に観に行こうね」とか。「子どもがいたらよかったね。秋ちゃんはどっちがほしい?」「男の子かな」「私は女の子がよかったー」なんてことも話しました。

仕事の話もしましたよ。「こんなにすごい経験をしているんだから、これを映画にしない手はないよね」って。夫も、この経験で映画の企画が5本は出せる、と主治医の先生に言っていたそうです。

11月5日の私の誕生日には、声は出さずにバースデーソングを歌ってくれました。そして「寂しくさせてごめんね」と。でも、夫は生きようとしていました。

彼が1度だけ「僕はもういいよ」と、口にした日があります。痛みがとにかく激しくて、弱気になったのかな。私は主治医の先生に、「夫がこう言っています」と、わんわん泣きながら伝えました。彼が諦めるなんて、よほどのことです。でも、その日の夕方には、「みっちゃんががんばっているから、やっぱり僕もがんばる」と言ってくれて。