《回 答》

「やっていません」と胸を張って、抗議して

繰り返すようですが、家族や親戚といえどもたましいは別です。たましいの視点から見れば、現世での血縁に縛られたり、「親戚だから」「家族だから」とこだわったりするのは、思い込みでしかないことを、改めて心に刻んでください。

その視点がなければ、親戚づきあいの悩みは「でも」「だって」の繰り返しとなり、いつまでも解決できないでしょう。家族だから近くに住んでいなければいけないということはなく、親戚だから仲良くつきあわなければならないということもありません。

この相談者の方も、「もう叔母とは関わらない」と決め、別の街に引っ越す選択をしてもいいのです。それが責任主体で生きるということ。でも、縁を切る前にすべきことがあります。自分がこの叔母と同じ家系に生まれたことの意味について考えてみましょう。

家族や家系というのは、たましいの学校です。自分がその学校に入学した(その家族や家系に生まれた)ということには、もちろん意味があるのです。家族や親戚は同じようなテーマや課題を学び合う生徒同士。ですから今、自分の目の前にある問題は、自分が学ぶべき課題です。

私たちは課題をクリアするために生まれてきたのですから、問題から逃げず、乗り越えることが必要。それをせずして、ほかの街に引っ越したとしても、学校で追試を受けるように、また同じような問題に出くわす可能性が高いでしょう。

ということは、言葉は乱暴ですが、この方は今の課題を乗り越えるために叔母と対決する必要があるのです。やってもいないのに泥棒扱いされ、言い返すこともできず、嘘の噂を言いふらされて落ち込んでいるのは自己憐憫です。「私はやっていません」と胸を張って、公明正大に強い口調で抗議しましょう。

震災時に、食料を分けてくれなかった叔母に強く抗議はしていますが、言い方が感情的ではありませんでしたか? 感情で言えば、相手も感情で返してくる。抗議するときに、感情はいりません。理性的に、理路整然と主張するのがポイントです。

また、「叔母がこうしてくれなかった」と不満に思うのは、裏を返せば相手に「こうしてほしかった」という依存心があるからです。その気持ちを相手に理解してほしいと思うのは承認欲求。承認欲求と依存心を捨て、一人で人生をサバイブするくらいの強さを持ちましょう。