仕事も介護も中途半端になっていた
しかし、思惑通りに事は進まない。何しろ仕事が忙しかった。業務に追われると、隣の実家をのぞく時間もなくなる。母親の介護どころではなかった。
仕事も介護も中途半端になっているのでは? と焦りが大きくなる。それでも仕事をやめようとは思わなかった。向井さんには、会社をたためない事情もあったのだ。
「夫も自営業で、子どもたちが社会人として独立するまでは、私も働かないと家計が苦しかったんです。それに、50代で仕事をやめて、この先、また働きたいと思っても、もう自分が好きな仕事なんてできないかもしれない。それも怖かった」
だが、会社の経営は黒字もあれば、赤字のときもある。毎月の事務所の維持費やスタッフの給料を捻出しなくてはならない。
「経費を稼ぐこと、会社を続けることだけが、仕事の目的になってしまっていました。そうやって、介護から逃げていた部分もあったのかもしれない」と向井さんは目を伏せる。
そんなとき、一緒に働いてきたパートナーに会社をやめたいと言われた。いいきっかけだと思ったと向井さんは言う。子どもたちは独立し、社会人となって、家計の心配から少し解放されたタイミング。一方で母親の認知症は進み、要介護1から2になっていた。会社をたたみ、介護に専念するなら、今しかない。
「会社がなくなると自分の価値も失われてしまう気がしたけれど、息子が、『これまで働いてきたことは、ちゃんとお母さんの中に蓄積されている』と言ってくれて……」
そして向井さんは、2年前、事業にピリオドを打つことに。取引先には「介護のため」と正直に説明した。
「今ふり返ると、あの頃は、朝家を出て事務所に向かうのが憂鬱だったんです。仕事をしなくてはいけないし、介護もある。気が重かったんでしょう。実際には、すぐ近くにいながら、なかなか母のそばにいてやれず、父の助けにもなっていない。そのジレンマと罪悪感がありました」
現在は、事情を知りながら、それでも依頼してくれるお客さんからの仕事だけを個人で請け負っている。そして母親のデイサービスの予定や父親のスケジュールに合わせ、実家には1日おきに通う。試行錯誤の結果、このペースに落ち着いた。
「認知症の母を相手に、父もストレスがあると思います。グチを聞いたりして、そのフォローをするのも私の役目。会社をたたんでから、母がトボケた失敗をしても、笑いながら父と語り合えるようになりました。気持ちに余裕ができたんでしょうか」
自分の選択に後悔はないという向井さん。悩み抜いたからこそ、たどりついた今の生活に納得している。