木曽義仲にも敗れ、西国へ落ちていく平氏

富士川の戦いは平氏の自滅により頼朝の勝利であっさり終わったが、その結果は鎌倉幕府の樹立にとって重要な転機となった。

南関東は事実上の独立国として朝廷の支配を脱し、頼朝は鎌倉を拠点として幕府機構の整備や武都・鎌倉の建設に邁進し、武家政権の基礎を固めていくのである。

頼朝は鎌倉に大倉幕府を建設し、ここを拠点として東国で地盤固めを進めていく(写真提供:写真AC)

一方、平氏の勢力は尾張の国(おわりのくに=愛知県)以西に後退し、屈辱的な敗北により武家の棟梁(とうりょう=統率者)としての威信も低下した。翌年、清盛が急死し、凡庸な嫡子・宗盛(むねもり)が後を継ぐと、平氏の退勢はいっそう加速する。

寿永2年(1183)には、信濃を平定し北陸道を進んできた木曽義仲に越中国(えっちゅうのくに=富山県)・加賀国(かがのくに=石川県)国境の俱利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで大敗。

同年7月、義仲軍が京に迫ると平氏は都落ちを決意し、安徳天皇を奉じて皇位の象徴である三種の神器とともに西国へ落ちていった。