中井さんの助け舟

子ども語訳は、読書好きの小学生(もちろん中井少年のレベルでなく)が理解できることを目安とした。したがって、小学生の理解にあまりに遠く、かつ除けるものは、先生の了解をえてまるごと取った。除いてしまったら元も子もない部分は噛み砕いて文にしていった。しかし、どうも文章がすっきりしない。引き受けますと先生に申し出た直後に、信頼する研究者から慎重な言葉で「やめたほうがいい」と助言されたことを思い出した。忙しさを口実に作業を棚にあげた日々もある。

『いじめのある世界に生きる君たちへ - いじめられっ子だった精神科医の贈る言葉』(著:中井久夫/中央公論新社)

そんな時、中井さんが「こんな書き出しにしたらどうか」と助け舟をだされた。それは、ある少女が精神科医である中井さんに相談しにいくという短い物語である。しかしこれで文章全体の音程がさだまり、文が自然に直されていった。文が自分で動きだす不思議な感覚である。すぐれた臨床家の処方は、すぐれない文章にも効いた。思うに、私も私の訳も肩が凝っていた。その凝りの状況をさっと見てとって、的確な助け舟を、しかもさりげなく出す。誰にでもできることではない。そんな先生の作法はいかに生まれたのか。中井久夫の本を読む多くの楽しみの一つだと思う。

本もだいたいできあがった時、話の中身は忘れてしまったが、先生が強い意志を示されたことがあった。『日本の医者』『抵抗的医師とは何か』の楡林達夫(中井久夫のペンネーム)がそこにいた。あるいは、いじめ被害に拱手傍観する学校関係者を前に、その子を守り抜こうとする精神科医の顔が。

この強さを私は愛してやまない。