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2022年8月8日、日本を代表する精神科医(専門は精神病理学)であり、阪神大震災の被災者の精神的ケアに尽力した精神科医で神戸大名誉教授の中井久夫(なかい・ひさお)さんが肺炎のため亡くなられました。享年88。統合失調症研究の第一人者としても知られ、詩の翻訳やエッセイなどを執筆、文筆家としても活躍されました。最後の著作は、中井さんの論文「いじめの政治学」を、小学生にも読めるかたちに再編集した『いじめのある世界に生きる君たちへーいじめられっ子だった精神科医の贈る言葉』でした。中井さんとともに著書の制作に関わったふじもりたけしさんが、追悼の言葉を寄せてくれました。

青いインクの小さな文字

私が日本を代表する精神科医・中井久夫さんとお付き合いさせていただいた期間は短く、住んでいる世界も医学と教育の違いがある。そんな私がこうやって文章を書いているのは、ひょんなことから先生と小さな本をつくることになり、そこでの短いやりとりが、忘れ難きものとなったからだ。

9年前の夏、私は中井久夫の論文「いじめの政治学」に心を動かされながら、いじめについての拙い本を出版した。真っ先に先生に献本したことは言うまでもない。先生の論文にインスパイアされました、と。間もなく先生は見ず知らずの私に葉書をくださり、「あなたのほうで、私の論文を子どもの言葉に訳すわけにはいきませんか」と書かれてきた。論文の内容を伝えることがいじめられている子どもの助けとなることを先生は知っていた。青いインクの小さな文字が並んでいた。それから3年余りをへた冬、『いじめのある世界に生きる君たちへ』(中井久夫著、構成ふじもりたけし)がうまれた。

最初にお会いした時の緊張を今も思い出す。東京から新大阪へ。そして須磨の海を見ながら列車に揺られた。すでに先生は施設に入られていた。表情は固かった。私は如才なくふるまえるタイプでない。だいたい、79歳の男と53歳の男の初顔合わせだ。話の継ぎ穂を幾度となく失って当たり前か。あとで秘書の方が「先生は男の人とは合わないんですよ。今日はいいほう」とフォローしてくださった。

どんな流れでそうなったのか、ギリシアの話になり、先生が「ほら、ギリシアの映画監督がいたでしょ。うーん。名前が出てきない。旅芸人とか…」と言われた。人の名前をあまり覚えない私も、とても好きな監督テオ・アンゲロプロスの名はでた。「そう、そう」。その時、ほとんど自己暗示だけれど、距離が埋められたと思ったことを覚えている。