壁一面の書籍をみながら

さいごにお会いした時、私は、施設の個室にしつらえた壁一面の書籍をみながら、言葉があまりでなくなった先生と時をすごした。私には言いたいことがあった。

私はいつの頃からか「あの戦争があって、いまの日本がある」ことを思うようになった。戦争の記憶を失う社会は危うい。そして、中井さんは昭和天皇が亡くなったとき、「われわれはアジアに対して、『昭和天皇』である。問題は常にわれわれに帰る」を結語とする、昭和という時代を送る一文を書いた人物だ。

そんな鋭利な歴史の言葉を、いわゆる戦中派の人々は紡いできた。区分は微妙だが、中井さんはその最年少の世代といえよう。私は中井さんの一世代上の人の名前をあげながら、そういう人々のことを自分なりに引き継ぐ努力をしたいと思っていると、やや唐突な感じで話した。その次に位置する中井さんをそこに含めることは恥ずかしくてできなかった。先生はじっと聞き、頷かれた気がした。

われわれの時代は、大切な人をまた一人失った。

■中井久夫(なかい・ひさお)
1934年奈良県生まれ。精神科医。京都大医学部卒業後、名古屋市立大助教授を経て、1980年に神戸大教授に就任。1995年の阪神大震災では被災者の心のケアに尽力し、2004年には自然災害や事件で心的外傷後ストレス障害(PTSD)を負った人のケアなどをする全国初の拠点施設「兵庫県こころのケアセンター」の初代センター長に就任した。1985年には芸術療法学会賞、1989年には『ガヴァフィス全詩集』で読売文学賞(翻訳研究賞)、1991年ギリシャ国文学翻訳賞、1996年には『家族の深淵』で毎日出版文化賞を受賞。2013年文化功労者(評論・翻訳)