産むも、産まぬも、国策だった時代に

酒井 大正時代は、「自由恋愛」が提唱され始めた時代でもありました。それまで制限されていた反動からか、恋愛に絡む殺傷事件や心中事件が相次ぎます。新劇女優の松井須磨子(まついすまこ)も愛人だった評論家の島村抱月(しまむらほうげつ)の後を追って自殺しますし。「情死の研究」という特集もあります。

 それこそ、『婦人公論』の女性記者が、有島武郎(ありしまたけお)と心中するという事件*も起こりましたね。

酒井 自社社員が起こしたスキャンダルを、隠すことなく大々的に扱っています。

 当時、大正天皇の妻・貞明(ていめい)皇后は、有島事件の3ヵ月後に起こった関東大震災のことを「神のいさめ」とする和歌を詠んでいます。皇后は具体的に何が「あしき事」だったかを挙げているのですが、心中事件もその一つだったのでは。さらに婦人参政権を求める動きに対しても、「前途憂慮いたさるゝ婦人の行動」と批判しています。

酒井 貞明皇后の言葉は、当時の世相を反映しているのでしょうね。

 皇室は国民のモデルとして、女性が男性を立てることをかなり意識しています。たとえ宮中で長命の女性が力を持っていたとしても。男女の関係性を打ち破ろうとする女性解放運動を不吉なことと見ていた。

酒井 不思議なのは、『婦人公論』は、女性解放を推し進めながらも、皇室に対しては「アンチ」ではない。むしろ、大好きじゃないですか。庶民が皇族の話をゴシップ的に楽しむようになった先駆けかも。

 たしかに、古くは昭和天皇のご結婚やミッチーブーム、新しくは「雅子様に笑顔が戻る日は、いつ?」といった座談会までありますね。

「雅子様に笑顔が戻る日は、いつ?」(2004年6月22日号)。皇太子さまの「人格否定発言」を受け、皇室ジャーナリスト3人が語り合った
 

酒井 その意味では、「何でもあり」の姿勢です。初期の頃のバックナンバーを見ても、白洲正子のようなお嬢さまのハイソサエティライフを紹介する一方で、貧しい人の苦しみも取り上げる。階層やイデオロギーで女を区別せず、女性なら全員ウェルカム。それは現在の誌面でも同じように感じます。

 面白いのは、戦争中、国は女性を焚き付けて、子どもをたくさん産ませようとしましたが、『婦人公論』もそれを後押ししているんですね。

酒井 「産児報国」「結婚翼賛」といった文言だらけになって、背景にある国策を感じさせます。

 でも、戦後いきなり逆になる。

酒井 「産めよ殖やせよ」から「産児調節」へ。戦後の座談会では、人口が増えたから、他国を侵略しなくてはならなかったと反省しています。

 この狭い国土で生きるためには人口を増やさないようにしなければ、と。少子化に苦しむ今から見れば、この変化は実に滑稽です。しかし、当時の社会ではそれが常識としてまかり通っていた。

酒井 戦前・戦中は、軍の人がたくさん原稿を書いています。結婚・妊娠・出産という女の一大事も、いざとなったら国が管理しようとするのだ、ということ。さらにメディアも簡単に操作されることがわかります。

 一つの雑誌の論調を追っていくだけでも、それが見えてきますね。

*1923年(大正12年)、小説家の有島武郎と、『婦人公論』の編集者である波多野秋子が、軽井沢の別荘で心中した事件。この事件はセンセーショナルに報じられ、耳目を集めた