キャリアウーマン生活を謳歌していたころ(写真提供:袴田ひで子さん)

数字に強いキャリアウーマン

私たちは6人きょうだいで、私は下から2番目、巖が1番下。巖はいつも私にくっついて、浜名湖の砂浜で遊んでいました。幼稚園の学芸会で巖が「とうちゃんだい」というお芝居に出て、背広姿にステッキで踊ったのは本当に可愛かったね。

近所で火事があった時、巖は飼っていたメジロの鳥籠を抱えて逃げ出し、震えていました。優しい弟です。けんかしたこともありません。

私も巖も運動神経はよかったですよ。よく巖に勉強を教えていました。母には自慢の娘だったんじゃないですか、ずっと私の成績表を保管していましたから。学級委員長も任されました。私は気が強く、「おとなしい實(みのる)さん(次兄)と代わればよかったのに」とよく言われていました。

終戦後に卒業した中学から推薦をいただいて、税務署に就職しました。父は体が弱かったので、高校に行きたいなんて言える家計ではなかった。役所では女はお茶汲みのようなことばかりさせられるのが嫌で、民間の税理士事務所に移りました。数字には強かったです。

22歳で結婚しましたが、性格が合わず、23歳の時に離婚しました。私が悪かったんでしょうね。母や周囲は「しょうもない男でも男は男」とさかんに再婚を勧めましたが、私は「しょうもない男なんかと結婚してられるか。男なんか金輪際、ごめんだよ」と撥ねつけていました。

その後はコーヒー会社に勤め、紅一点でしたが、社員旅行もあり楽しかった。週末になると職場の人たちを麻雀に誘ったりも。今でいうキャリアウーマンとして、20代を謳歌していましたね。