歯をくいしばって必死に書き続けた結果

それは小説にも言えることだったようだ。林芙美子というと「浮雲」「晩菊」といった男女の心理戦を巧みに描いた晩年の作品が有名で、まぎれもなく傑作と呼べる。しかし、田辺聖子も『ゆめはるか吉屋信子』で指摘していたが、そういった作品はあまりにもうますぎる。

『掌の読書会――柚木麻子と読む 林芙美子』(著:林芙美子 編集:柚木麻子/中央公論新社)

日本人全員が読むべき名作という感じがして、私のための物語という感じがあんまりしない。それは芙美子が、歯をくいしばって必死に書き続けた結果だ。カフェの女給を物語のネタにすることが多かった男性中心主義の文壇で、その女給自身がなんと自分の言葉で書き始めたのだ。

ストリート出身、当事者の存在は脅威だったのだろうと思うし、歓迎されなかったのは想像にかたくない。文壇でバカにされまい、認められるぞ、と良くも悪くも芙美子は、愚直に努力する。同業のシェアを独占するために、信じられない速度で執筆する。時に体制側に付く。

しかしながら、そうまでしても得られたものは平穏ではない。『柚木麻子と読む 林芙美子』収録の「椰子の実」でも「私の死と同時に、私の書いたものすべてはその日から絶版と云う事に交番へでも税務署へでもとどけておきたいものだと思う」とあるから、これは謙遜でも自虐でもなく、本当に自信を持っていないのだ。

ただ、これだけ短期間のうちにアップデートを繰り返せるのは、野心ばかりではなく、自己批判精神が強烈だからだ。成功しても、成功した気がまったくしない。すべてを手に入れても、やっぱり何ももっていないような気がして、そわそわしてしまう。

いくつになっても、心がめまぐるしく変化してしまう。書いた先からそれが古くなるのがはっきりわかる。それはもうSNS時代を生きる我々そのものではないか。もしかすると、芙美子の登場は早すぎて、その真価が問われるのはこれからなのかもしれない。