まだ何者でもなかった、林芙美子の文章

ただ、林芙美子までがそうとは思わなかった!

なにしろ、『放浪記』からして、改稿を重ねた魔改造日記である(戦中の検閲など、外的要因もあり、芙美子だけのせいではないが)。時系列がめちゃくちゃなせいで、読みづらいと脱落する人も多い。

大抵の林芙美子愛好家がそう言うように、改造社から出版されたゼロバージョンの『放浪記』が、いちばんみずみずしく、香りや湿度が立ち上ってきて、その世界にすっと飛び込める。野心的でへこたれず、まだ何者でもない、芙美子に自然と寄り添える。

大正末期から昭和にかけての東京を舞台に、デビュー前のアルバイト生活を綴ったこの作品は、貧乏生活や失恋の辛さを嘆きながらも、きらめくような希望に満ちている。

ユーモアとバイタリティなら誰にも負けない作家志望のフリーター女性がカフェの女給や女中の職を転々としながら、詩や童話を書きまくり、成功を夢見てひた走る姿が大衆をとらえ、一躍ベストセラーになった。私も、この前向きな「ふてぶてしさ」に何度も元気付けられてきた1人だ。

しかし、国民的作家となった後の芙美子はそんな自分の素直さを拙さととらえ、どうにも直視したくなかったようだ。直しを重ねた結果、成功した後の芙美子視点のつっこみが入っていて、なんだかよくわからないマルチバース的な作品になってしまっている。『放浪記』が売れすぎたせいで、その後のハードルが跳ね上がってしまったことも影響しているだろう。