1964年(昭和39年)。東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されるこの年に福井県出身の松山数夫という16歳の少年が東京駅に降り立った。
のちの「五木ひろし」―――誰もが認める国民的歌手である。芸能界に飛び込んで来年で60年。歩んできた歴史は、昭和の歌謡史そのものだ。五木ひろしが見た風景とは?語り継ぐべき日本の歌謡史とは―――。(構成◎吉田明美)

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銀幕の大スター、長谷川一夫さんのこと

僕はデビュー以来、お客さんが足を運んでくれるコンサートや劇場公演をとても大事にしてきました。これまでコンサートは約7000回、劇場公演では約5200回ステージに上がっています。わざわざ僕のために時間を割いて会場まで来てくれるわけですから、何としても喜んでもらわなくちゃいけない。
だから、がんばって目新しいことにたくさんチャレンジしてきました。

ステージはたいてい2部構成で、歌は2部でたっぷりお聴かせしますが、第1部ではお芝居を入れることが多かった。その芝居にどんどん力が入っちゃって…。
やるからにはとことんやらなければ気がすまないのが僕の性格。
というのも、僕の舞台は、銀幕の大スター、長谷川一夫さんの影響を大きく受けているのです。

1982年新歌舞伎座で(写真提供◎五木プロモーション)

僕の初めての公演の演出をしてくれたのは、長谷川一夫さん。この話をするのは初めてかもしれません。実はその当時の劇場側の偉い人が、僕を迎えるにあたってすごいキャスティングを考えてくれて、芝居の演出に長谷川一夫さんを起用してくれたんです。

当時、長谷川一夫さんは宝塚歌劇の『ベルサイユのばら』を初めて演出されたことで大きな話題になっていました。
僕はこの時『沓掛時次郎』を演出していただいたんですが、舞台で主役がどうすれば一番きれいに見えるか、というのを常に考える演出でした。

例えば、旅姿で出てくるときに、もし脚絆が長くてかっこ悪いと思えばすぐに切っちゃう。いかに主役がお客さんの目に「美しく」「かっこよく」映るかが最優先ですから。視線をどこに向ければもっともかっこよく見えるかなど、とにかく細かい演出でした。
国民栄誉賞までとった方の演出がベースになっているので、僕の舞台は歌手が片手間でこなす舞台にはなっていないという自負があります。

長谷川一夫さんはもちろんお顔立ちもよかったけれど、立ち振る舞いも素敵でね。エルメスのスカーフをさっと巻くなど、おしゃれな方で、海外のファッションにも詳しかった。いろいろなことを勉強していらっしゃいましたよ。

あと、左頬の傷を隠すためのお化粧もご自身でされていたので、化粧法もいろいろ教えてくださいました。
長谷川一夫さんの晩年に直接たくさんの教えを受けることができたのは、僕の財産のひとつになっています。幸せですね。