虚実の狭間を描いた直木賞受賞作
近松門左衛門の名を知る人は多い。教科書でも馴染みの『国姓爺合戦』『曽根崎心中』『心中天の網島』などの浄瑠璃作者である。虚実皮膜、つまり芸とは実と虚の間にあるという論を唱えたことでも知られた近松は、心中事件があると聞けば、駕籠で現場に駆けつけ、とって返して筆で作品を書く──いまでいえば週刊誌記者と似た存在で、虚々実々のドラマで満場の客を感動の渦に巻き込んだ。
直木賞受賞作品である本書の主人公は、なんの因果か、大近松の硯(すずり)を持つことになった近松半二。というと虚構めいているが、この半二、歌舞伎人気に押され、浄瑠璃が青息吐息だった江戸時代中期に、『本朝廿四考(ほんちょうにじゅうしこう)』や、この『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』などを大ヒットさせ、浄瑠璃好きの作家、橋本治さんをして「人形浄瑠璃中興の祖」と言わしめた実在の人物である。
小説は、恋心をかなえられなかった女の夢、門左衛門をはじめ芝居にかけた人々の見果てぬ夢、そうして一期の夢を見るために芝居小屋に駆けつける庶民の思いなど、さまざまな人生が渦巻いている江戸時代の大坂・道頓堀を舞台に、半二が、その渦から虚々実々の物語を生むまでを活写する。まさに文の楽しさを伝える現代の“文楽”は、選考委員の桐野夏生さんから、「虚を書くと実人生がやせていき、実人生が充実していくと虚がうつろになる創作の恐ろしさまで描き切った」とも評価された。
義太夫節の稽古にも励み、古典に現代の息吹を吹きこんだ作者は作家生活四半世紀。小説は、直木賞受賞で大増刷し、7万2000部となった。筆の先からしたたった墨が、文字になり、舞台になり、さらに小説の賞まで取るとは……。半二もこの虚実の展開を喜んでいることであろう。
著◎大島真寿美
文藝春秋 1850円