弁護士法改正
この頃の明大女子部を理解する上で重要なのが、弁護士法の改正です。
1922(大正11)年、司法省は弁護士法改正調査委員会を設置し、この委員会が1927(昭和2)年に弁護士法改正綱領をまとめました。そこには、それまで認められていなかった女性の弁護士を認める内容が含まれており、この方針はその後の改正作業でも重視されていきます。
そして、最終的に改正案がまとまったのは1929年3月でしたが、実は明大女子部の創設は、この弁護士法改正の動きを踏まえたものだったのです。
嘉子の入学直後の1933年5月、改正された弁護士法が公布され(施行は1936年4月)、それまで「日本臣民ニシテ・・・成年以上ノ男子タルコト」(第二条第一)とされていた弁護士の資格が改められて、「帝国臣民ニシテ成年者タルコト」と「男子」の条件が削除されました。これにより、女性も弁護士になることができるようになったのです。
そもそも日本に弁護士という職業が登場したのは、明治時代でした。
明治政府は、西洋の近代的な司法制度を継受し、1872(明治5)年制定の「司法職務定制」によって、新しい司法の構造の大枠を包括的に定めました。この法に定められた、訴訟に際して代理を務める代言人が、弁護士のルーツです。
さらに1876年制定の「代言人規則」によって、代言人はより具体的に制度化されました(1880年にはさらに改正されます)。
とはいえ、この段階ではまだ整備不十分で、代言人に対する信頼も決して高くありませんでした(江戸時代に存在した非合法の訴訟代行業者である公事師の悪いイメージのために、批判的に見られることも多かったようです)。
1893年に、より近代化された弁護士法が公布・施行され、代言人は弁護士と呼ばれるようになります。
試験制度も導入され、専門的な知識を身につけた重要な職業として位置づけられていきますが、それでも、判事・検事と比べるとその社会的地位は低いものでした(試験も、判事・検事は判事検事登用試験、弁護士は弁護士試験と別になっていました。試験制度が高等試験司法科として統一されるのは1923年のことです)。
また、既に述べたように、弁護士になれるのは「成年以上ノ男子」に限られていました。