一九三三年、日本統治下の台湾。ある事件により東京の雑誌社をクビになった記者・濱田ハルは、台中名家のお嬢様・百合川琴音のさそいに日本を飛び出し、台湾女性による台湾女性のための文芸誌『黒猫』編集部に転がり込んだ。記事執筆のため台中の町を駈けまわるハルが目にしたものとは――。モダンガールたちが台湾の光と影を描き出す連作小説!

 四

 夕方、チャペルでの礼拝をサボって、校門の脇のベンチでうなだれていると、大通りに面した柵の向こうから呼びかけるような小さな声がきこえた。

 ――おお、ロミオ、あなたはどうしてロミオなの?

 茶色い鉄柵の向こうに、懐かしい玉蘭の顔を見た瞬間、ハルは大きな声を上げていた。

「もう! ロミオじゃないわよ。あたしがどれだけさみしかったと思ってるの。あたし、外にでたら、今度こそ小姐を投げ飛ばしてやるわ。こんなところに閉じ込められるってわかってたら、絶対首を縦にふらなかった」

 つい先日まで天国のようだと思っていたのに、秀梅に責められたことで、ハルはすっかり元気を失っていた。 

「ごはん、ちゃんと食べてる?」と心配そうに玉蘭がいった。

「正直にいうわ。あなたの料理が恋しい」

「そういうかと思って、今日はちまき持ってきたよ。中秋節は終わっちゃったけど、わたし、ちまき作るの好きなんだよね」

 柵の隙間から差し入れられたちまきは、まだかすかに温かった。竹の皮を剝ぐと、香ばしいにおいがぱあっと広がる。

 豚肉にピーナッツ、うずらの卵まで入ったちまきは絶品だった。ハルがちまきを無心で食べていると、ふいに涙が一粒ぽろりと頰を伝ってスカートの上に落ちた。  

 泣きながら、すっかり忘れていた自分の気質をハルは思いだした。内地にいたころから、ハルはひとの感情に過剰に反応しがちだった。普通のひとであれば持っているだろう、自分と他人の境界がきわめてもろいのだ。妹のようにすら感じていた秀梅から向けられた軽蔑の言葉と、秀梅自身の悲しみがどちらも入りこんできて、もう胸がいっぱいだった。

 柵の隙間から手を伸ばして、玉蘭がハルの大きな背中をさすってくれた。いまは言葉ではなくて、背中に感じる手のひらの温かさがちょうどいい。

 しばらくしてハルが泣き止むと玉蘭がきいた。

「ハル、ずいぶんたいへんそう。わたしにできることはある?」

「二日に一度はごはんを届けて。絶対よ。それと……」

 少しだけ迷っていたが、ハルは秀玲の退学事件について、玉蘭に話すことにした。台中にきてから、ハルは玉蘭にだけは考えていることをすべて話していた。つまり、ハルが感じていた孤独の正体は、学校には玉蘭がいない、ということでもあった。

 玉蘭は、ハルの背中に手をあてたまま、話を黙ってきいていた。ハルの話が終わって少し考えたあと、なるほどね、と納得したようにいった。  

「その子のいうとおりだと思うよ。いまだってきっと差別はある。わたしも学校でからかわれたこと何回もあるし。でも、十年も前の事件だし、その先生と秀梅以外、関係者の話がきけないまま記事にできるの?」

「記事のことなんてすっかり忘れていたわ。いわれてみればそうよね。テーマを変えたほうがいいのかも。秀梅にも軽蔑されちゃったみたいだし……」

「そんなのハルらしくないよ! いつもだったら先生や校長を脅しつけてでも、なにがあったのかききだすでしょ。いいわ、わたし、自由に動けるから、街で秀玲さんの居場所をさがしてみる。十代の女の子がそんなに遠くにいけたとは思えないし、事件の当事者の話をきけば、ちゃんと記事になるでしょ」

 玉蘭の言葉をきいていると、ハルは自分の気持ちが静まっていくのを感じた。

 秀梅にすぐには許してもらえなくても、自分には記事を書いて世間に訴えるという方法があるんだ――。

「ねえ、ちまき、もうひとつないの?」

 遠慮がちにハルがきくと玉蘭は、あとふたつあるよ、と大きな声で笑った。