江戸時代中期に、歴史の教科書でも有名な『解体新書』を翻訳執筆した杉田玄白と前野良沢。仲間たちとともに遅々として進まない翻訳作業に明け暮れる二人だが、ある日、玄白は良沢に対して、奇妙な違和感を感じ始める……。小説界を驀進中の著者が描く、驚愕の江戸奇譚開幕!

「では、ウエインブラーフは眉毛とのことでよろしいですな」
家の外、往来から聞こえてくる納豆売りの声に負けぬよう大声で問いかけると、
「ええ。それで間違いないでしょう」
淳庵の応えを聞いて、玄白は硯の墨溜まりに筆を浸した。筆を走らせてゆく手帖は今や蛹に成る前のでっぷり芋虫の如くの厚さ。捲っても捲っても真新しい白の帳面が現れてこぬことにふふんと思わず鼻が鳴る。おまけに、ほらまたこいつだ。障子戸を震わす納豆売りの声。
「まだ昼餉(ひるげ)が終わらぬくらいの時分までに解けて、ようございましたな」
どうやら淳庵も同じことを考えていたらしい。呟かれた言葉にうんうん頷く。
部屋に塵山を拵えた日からすでに一年。単語一つに一日掛かりとなることはさすがに少なくなってきた。それだけ和蘭語が頭に蓄えられてきたというのが理由にあろうが、たぶんそれだけではないと玄白は思うのだ。と、ここで玄白は、はてと気づいた。ゆっくり手帖から顔を上げてまわりをうかがう。この場にもう一人いるはずのお人のお声が聞こえてこない。
「前野先生。一体いかがいたしました」
いつもであれば、訳読に異がなくとも必ずそれに対しての声がある。見れば、良沢は顔を伏せていた。膝の上に載せられている両の拳は、通り雨に降られた小鼠の如く震えていて、慌てて玄白は体ごと良沢に向き直る。
「ご気分でも悪くなられましたか。今すぐ横になられては」
「いや、失礼した。どこも悪くないゆえこのまま続きを」
言って良沢は顔を上げるが、その顔を目の当たりにしたのならこのまま落着にできるわけがない。
「ですが先生、それほどお顔が真っ赤であるのに、どこも悪くないってのは無理がありましょう」
まるで熟れた柿の如くだ。もともと皮膚が薄いからか、涙袋までもが赤みを帯びている。
しかし良沢は「なんでもないのだ」と羽虫を払うかの如く顔の前で二、三度手を振り、「早く次の行(ぎょう)にまいりましょう」と指の背でてんてん畳を叩く。先生のご機嫌を損なうわけにもいかず、玄白は淳庵と目の端でついっとやり取りしてから、
「ならば先生、ウエインブラーフは眉毛でよいとのことで」
すると良沢の顔はまたぞろ一気に赤みを増すのだ。見て見ぬふりなど出来るはずがない。
「ま、眉毛ではないのですか」問いかける玄白の声は裏返りもする。
「いや、眉毛でしょう。眉毛でよいかと存じます」ふうふう息を整えているが、良沢の耳たぶは赤くなっていくばかり。
「ウエインブラーフになにか他の意味があるからこそ、そのように赤くなっていらっしゃるのではないのですか」
ぐいと前のめると、玄白の隣でも同じように前に出てくる膝がある。
「そうです、先生」と淳庵も必死の形相だ。「ウエインブラーフになんぞあるなら、そいつを教えていただきたく」
「そう連呼するのはやめていただきたい!」
部屋内に響いた叫び声に、玄白は淳庵と二人して口をつぐんだ。立ち上がった良沢は肩を上げ下げ、息を整えている。
「……一度腹を冷やしてまいります」
腹? とたずねる暇もなかった。部屋を出ていく良沢の、その爪先だけで進むような足取りを耳で追っていると、玄白の脳裏にはなにやら思い出されるものがある。
「……なんです、今のは」
呆気に取られたような淳庵の呟きに「私にもよくわかりませんで」と応えつつ、玄白は頭をぐるぐると巡らせている。そうだ、あれは己が幼かった頃のこと。家内で兄の部屋に忍び込んだ際、箪笥の本と本との間に挟まれた薄紙が気になり、そいつをちょいと摘んで引っ張り出してみりゃあ、そこには女子の大股開き。まじまじと見ていると、いきなり手の中から紙切れが消える。顔を上げれば、握り潰した紙を右手に込めた己の兄が、真っ赤になってこちらを睨みつけていて――、
「まるで春画をはじめて目にした手習い子のようだったではありませんか」
どうやら淳庵も己と似通った場面を頭に思い浮かべていたらしい。
「ウエインブラーフ」と淳庵は口にする。
「この言葉の一体どこが破廉恥なのです」
「私に聞かれたって分かりませんよ」
八つ当たられて己の口振りがぞんざいになったのがわかったが、淳庵の勢いは止まらない。
「せっかく訳読が朝の内に終わったと思ったら、意味のわからぬ理由で中断ですか。そのうえ、帰ってこないではありませんか!」
「ですから、私に訴えられても困ります!」
きいっと奇妙な声を上げ、手元の紙をくちゃくちゃにする様子に思わずぷうと頬から息が漏れ出た。睨め付けてくる淳庵の、その尖らせた唇がお可愛らしいことをはじめて知った。
良沢の言動ひとつで言い争うなんぞよくあることだ。だが、此度の言い争いにはほどよい軽々しさがある、なんて考えているのは己だけであろうか。だが、淳庵もはあ、とため息をこれみよがしに吐いているものの、眉根はまったく寄せられていない。
「まるでお姫(ひい)さんを相手にしているみたいですよ」言って、ちらりとこちらを見やる。
「けれど、私は今日はじめてきちんと和蘭語を耳にした気がいたします」
「え」
はじめてとはどういうことか。黙ったままで続きをうながせば、淳庵は口端をゆるませ言葉を重ねる。
「これまで私は和蘭語を『ターヘル・アナトミア』を解くための道具としてしか、目に耳にしてきませんでした。しかし紅毛人にとっての和蘭語はもっと傍にあるものなんでしょうな、その音の響き方ひとつで顔を赤らめてしまえるほどに」
私はあまりに和蘭語を憎みすぎていたのやもしれませぬ。
しみじみと語る淳庵ったら、フルヘッヘンドの頃と比べてとんでもない変わり様であるが、玄白はどこかでこうなることを予見していた気もする。
先に己は、和蘭語の訳読が進む理由に和蘭語が頭に蓄えられてきたのがあろうと考えたが、主な理由はおそらくこれなのだ。
我らはセイニーが合ってきたのではなかろうか。
おっといけない、いけない。昨日訳読したばかりであるから、思わず和蘭語が先に出た。セイニー、すなわち精神。そいつが合ってきたのではなかろうか。
どうやら水をひっかぶったらしい良沢が、戻ってくるなり「先ほどは失礼いたしました。私にはこの和蘭語の音が笑けて仕方がなくって」とぷつぷつ弁明するのも、なんだか微笑ましい。
「私はフルヘッヘンドが好きでございました」と淳庵も手元の手帖を一旦脇に置いている。「鼻にこびりついた塵山の臭いに三日三晩悩まされたというのに、耳馴染みがよくてあれから何度もつぶやいてしまいましたよ」
「そうでありましたか」
常時眉間に刻まれていた皺が取れたお顔は、まるでお人が変わったような男前ではないか。
「『ターヘル・アナトミア』の訳読も今日で半分を越しました。これからは楽しみながら進めていくというのが、続けるための一手かもしれません」
淳庵は己の言葉に首を縦に振っている。良沢も優しく笑みを浮かべていて、この部屋は間違いなく温みのある空気に満ちている。しかし、玄白はまだ二人に合わせて口の端を上げるとき、障子戸の方を気にしてしまう。誰ぞがこの部屋を覗き込んでいないか、己の口にする和蘭語に耳をすませていないか、確かめてしまう。
玄白は思い出す。
女中が暇乞いを出したのは、近所のお人らが洗濯をしようと集まった井戸端に入れてもらえぬからであったという。人の口に戸は立てられないとあって、どこかしらから玄白が日々勤しんでいる腑分けの話が漏れて、次の日から家の前に塩が撒かれるようになったのだ。夜半だからと安心をして和蘭語を口ずさみながら近所を散歩したのは己の落ち度だ。それを耳にしたらしい振売は玄白の家だけ菜を売りに来ることはなくなった。
紅毛人ですよ、紅毛人。井戸端で隣同士ぴっちり腰をくっつけながら、手拭いを洗っている女房らの内緒話を、その女中は耳にする。
わざわざ紅毛人の言葉を解そうとしているだなんて、あまりに不気味よ。お腹の中になにやら企み事があるんではないかしら。もしかしてあの医者、紅毛人の手下であったりして。それなら、あの医者のところで下働きしている女中も関わりがあるってわけで。ここで女房らが一拍置いたのは、私が後ろにいたことを知っていたからに違いありません、と女中は暇乞いを認めた書状を握りしめながら言った。そして、その書状はこちらに向かって、すすすと滑らされ、
私はご主人様と同じような紅毛人になぞ、なりたくないのです。
これを思い出すとき、必ず玄白の頭に浮かんでくる淳庵の一言がある。未だ通じ合えていなかった頃合いに、良沢について放たれた言葉だ。
あの人も紅毛人のようなものですよ。
ならば、と玄白はその日の訳読終わりに良沢を夕餉に誘った。いつもであればさっさと帰路に着く良沢が、嬉しそうに頷くのに腹が煮える。
なにをそんな、普通のお人のごとくの反応をされるのだ。
私もあなたもおかしな人間でいなければ、紅毛人みたいなものでなけりゃあいけないというのに。
腹の中ではそんなことを考えているというのに、己の頭は良沢の好物を瞬時に思い出し、蕎麦の屋台に向かって歩き出していた。
大通りから一本外れた路地裏に出ている屋台を見つけ、店前の床几に良沢を座らせる。まるで膝で匂いを嗅いでいるかの如く、そわそわと両膝が動いているのも癇に障った。我々は紅毛人だぞ。そんな風に嬉しそうにしてくれるな。
「何を頼まれますか」と良沢に向かってたずねると、
「何があるのです」と不思議そうにたずね返される。
「色々ございますよ、餡(あん)かけ、あられに天ぷら、花巻、しっぽく、玉子とじ」
品書きを読み上げてやりながら、玄白は心の内で驚いていた。蕎麦の種類もご存じないとはなんたる世間知らず。本当に阿蘭陀の化け物でいらっしゃるらしい。
「玄白殿は何を食される」
「そうですね、それでは私は天ぷらを」
「ならば私も同じものをいただこう」
玄白が屋台の店主に注文をしている間も、こちらをじいと見つめてくる姿は人懐こい。
やめてくれ、と玄白は湯気の立つ椀を店主から受け取りながら唇を噛む。お前はそんな人間ではなかったではないか。
どうか己を一人にしてくれるな。
「そうだ、玄白殿。先の胃の腑についての訳ですが、あれは後述した方を採用すべきですな。あまり聞き慣れぬ和蘭語であったためにその時に答えが出せず」
「先生は紅毛人の言葉を学ぶことについて、気が咎めたりはいたしませんか」
目の前に置かれた蕎麦にも手を出さず舌を回し続けていた良沢に、差し込んだ。紅毛人との言葉に、屋台の店主がこちらに顔を向けたのを玄白は横目に捉える。良沢は気付いた様子もなく、玄白に首を伸ばしてくる。
「気が咎める?」
「紅毛人は我々とあまりに見目が違っておりましょう」思いの外、声が大きくなった。だが「鼻は蛹(さなぎ)から今まさに羽化をしている最中の蝉の背の如くにそそり立ち、目の窪みは女郎らを逃すまいとしたお歯黒溝の如くに深い」とそのまま続ける。
店主が蕎麦の茹で汁を流すその音に負けぬよう。店主のお耳にきちんと聞こえるよう。
「髪の毛だって渾名の通りだ。地獄の釜の火みたいに煌々(こうこう)と燃えていて、不気味ったらありゃあしなくって」
「どこが不気味なのです」
すっぱり切り返されて、思わず玄白は口をつぐんだ。
良沢はいまだ蕎麦に手をつけぬまま、きょとんとした顔を見せている。
「人間というのはとんでもなくおかしな生き物であるのですねえ。腑分けをその目で見ておきながら、そんな戯言が吐けるだなんて」
あまりに強い眼差しに真っ直ぐ射抜かれ、玄白は逸らすように下を向く。
「あれほど体の中身が一緒であったではありませんか。鼻や目の窪み、髪の毛なんぞ所詮は皮の上でのお話だ。一枚捲って、ちょっと肉を掻き分けてやれば、腑の色、腑の場所、腑の大きさとそのほとんどが全く同じ。紅毛人も日本人もちっとも変わりゃあしませんよ」
たしかにそうだ。玄白は椀の中の蕎麦を見つめたまま、思う。
そうであったではないか。椀の中を見つめたままのこめかみにきゅうと力が入る。
海の向こうのそのまた向こうで開かれた誰ぞとも知らぬ体の中身が、この日本の地にて割り開かれた女人の体の中身とあまりに似通っていて、己は息を呑んだのではないか。
「大変失礼いたしました」
玄白は素直に頭を下げた。取り繕うかのように蕎麦を箸でたぐり寄せる。
「近所のお人の目が思いの外、こたえていたようです。私は皆と違う人間であると、違う生き物であるとそう考えてしまっておりました」
「違うものであったなら困ります」
がちり、と固い音が鳴った。玄白は顔を跳ね上げ、息を呑む。良沢は箸を握っていた。それを椀の底に突き立てて、ぐるぐると蕎麦をかき混ぜている。
「あなたの中身が違うのであれば、あなたの腑分けをせねばならぬようになる」
はははと玄白は笑い声を上げた。上げねばならぬと思った。なぜだか分からないが、良沢にこれ以上口を開かせてはならぬ。だって、椀からはみ出る蕎麦が腑分けの時に目にした腑のように見えたから。ゆえに次の話題もこちらから。
「ちょいと先生。そうやって蕎麦を回してばかりでは蕎麦が伸びまする。早うお口にお運びなさいませ」
すると、良沢は少し困った顔をして、
「私はどうにも蕎麦が苦手で」
その返答に玄白は両眉を上げる。
そんな馬鹿な。以前お目にかかった際、あなたは蕎麦が好物だとおっしゃっていたではないですか。
だが、どうしてか己は、喉元から出かかったその言葉を飲み込んだ。
「啜るのがいつもうまくゆかぬのです」
「和蘭語の音の発し方に慣れてきてしまったせいではありませんか」
口をむずむず動かしている店主を睨め付け、黙らせる。そりゃあ蕎麦屋の店主たるもの蕎麦の食い方には一家言あって当然だが、玄白はこの話題をこれ以上、舌の上に載せておきたくなかった。
「そういえば外つ国のお人も蕎麦を啜るのは苦手だと聞きます。もしかすると和蘭語を発するあまり、お口がそういった仕様になってきたのやもしれませぬな」
一笑に付して、そのまま終わりにしてしまえ。玄白はそういった魂胆だった。しかし、ほう、と隣で吐き出された息に、びくりと肩が震える。
「ならば日本のお人は紅毛人ではない口の作りなのですかな」
良沢は箸を持ち、一本一本蕎麦を摘み上げ口に運んでいる。だが、箸を持ち上げるたびに蕎麦は逃げ出し、良沢の眉間に皺が寄る。
「先生ったら、そのような冗談を」
「ああ、やっぱり難しい。こいつは練習が必要だ。玄白殿、よろしければまた私と蕎麦を食べてくださいな」
言って、良沢が口を椀に寄せる。玄白の目には良沢の口から伸びた細い腕のようななにかがちゅるりと、蕎麦をたぐり寄せたように見えたが、玄白は己の天ぷらにかぶりつくのに必死であった。必死であったふりをした。
                〈つづく〉