夢の外側 19

10 その人のこと

 伯母たちを花屋の二階に案内すると、
「こんなに狭かったの」
「よく家族で生活してたわねえ。駒子(こまこ)ちゃんもかわいそうに」
と、驚きと哀れみをしばらく口にし続けた。
 駒子は先に着いて、窓を開けて押し入れから見つけた古い扇風機を回していた。数日前から天気が悪く気温は少し落ち着いていたが、長くこの部屋にいると熱中症になりそうなので少しの荷物を引き渡して了解だけ取って早く引き揚げるつもりだった。
 父・和彦(かずひこ)の上の姉である伯母・幸子(さちこ)は、扇子で顔を扇ぎながら壁際に荷物が積み上がった部屋を一周し、二番目の姉である悦子(えつこ)は、長らく使われていない台所のくすんだステンレスを眉をひそめて検分するように見た。
「結局真莉(まり)さんは来ないの」
「ずいぶん忙しいのね」
 伯母たちの言葉に、駒子は適当な返答をした。直前まで、母の真莉も来ると言っていたのだが、昨日の夜になって体調が悪くなったと連絡してきた。母は最初から来るつもりがなかったのだろう、と駒子にはわかっていた。母が来ると言わなければ伯母たちが来ないから、そう言っていただけだ。
「この中にあるのが、父が沼津のお家から持って来たものだと思います。おじいちゃんやおばあちゃんのものもあるみたいだから、一応、見てもらえますか」
 駒子が仕分けた段ボール箱の中には、父の幼少期や家族の写真と、沼津の家から持って来たと思われる日用品の類いが入っていた。
「和彦が亡くなったときは急で、形見分けどころじゃなかったものね」
「あら、この写真、姉さんよ?」
「これはお父さんが使ってた時計じゃない? 和彦が持って来てたの」
 幸子が手に取ったのはちょうど掌に載る大きさのトラベルクロックで、えんじ色のケースを開くとアナログの文字盤が現れた。駒子はそれを子供のころに見たような気もするし、覚えがない気もした。
 革のケースに入った万年筆もあったが、使われた形跡はなく、駒子も父が万年筆など使うイメージはなかった。写真以外は、「形見」というほどのものはない。
「それにしても、結局最後まで片付けをするのは駒子ちゃんなのね。こういうとき頼りになるのはやっぱり娘だわ」
 悦子が手に付いた埃を気にしながら言うと、隣で幸子が同意した。
「和彦がかわいがってた甲斐があったってものよ。和真(かずま)くんは何年も帰ってもこないんでしょ?」
 一度電話して以来、駒子は兄と連絡を取っていなかった。
「荷物を整理してたら、父が兄の年金とか健康保険とか払ってたのがわかったんですよね。長いこと仕送りもしてたみたいで」
 できるだけ事務的な口調で、駒子は言ってみた。
 急になにを言われたのか飲み込めない様子の伯母たちは、笑い混じりで言った。
「あら、そう? そりゃあ、息子だからねえ、男親はなんだかんだ言って甘いとこはあるわよ」
「そういえば、和彦が兄さんたちと出来の悪い子ほどかわいいって話してたことあったね。正彦(まさひこ)兄さんとこも長男に手を焼いてたから。今は孫をよく連れてくるんだけど、大学生で小遣いもらうときだけ愛想がよくて……」
「そうですか。兄に仕送りしてた時期、私も失業して困ってたんですけど、家にお金は入れてましたよ」
 軽い笑い話にする流れに乗らなかった駒子に、伯母たちは少し戸惑った表情をした。
「どうしたの? 今ごろそんなこと言って。駒子ちゃんはお父さんとあんなに仲良かったじゃない。失業してたときだって、駒子ちゃん、やっぱり実家がいいって言ってたんでしょ?」
「そうそう、和彦が、駒子はいつまでも子供気分で困るよ、なんて笑ってたわ」
「そんなこと言ってません。私はやっと家を出られたのに、お金に困って仕方なく戻ってただけです」
 伯母たちは顔を見合わせ、困ったような笑みを浮かべた。
「駒子ちゃん、片付けをしててお父さんのこと思い出してさびしくなっちゃったんでしょう」
「こんなに早く亡くなるとは思わなかったから、駒子ちゃんも親孝行ができなくて心残りなのよね。私も母が亡くなったときには、なんでもっと母にいろいろやってあげなかったのか、って自分に腹が立っちゃって」
 的外れな話を続ける伯母たちに、駒子は相槌も打たなかった。
 父が依頼したらしき探偵の報告書を見た次の週、駒子はこの部屋に来て一度見た箱の中も探し直した。しかし、関連があると思われるものはなにも見つからなかった。 
「そうよね、和彦が亡くなった後、私たちがもっと駒子ちゃんのことを気にかけてあげればよかったのよ」
 悦子がしんみりと言った。
「駒子ちゃんは、お父さんからほんとうに愛されてたのよ。それだけは自信を持ってちょうだい」
 幸子は少し声を詰まらせて、駒子を見つめた。
「ほんとよねえ。いつも駒子ちゃんの話ばっかりしてたのよ、和彦は」
「ほら、この写真のころなんて、駒子がお父さんと結婚したい、なんて言うんだって、自慢してたわよ。ねえ」
 傍らの箱に積んであった、駒子が保育園や小学生のころの家族写真を何枚か取り上げて、悦子が駒子に差し出した。
「いつだったか、駒子ちゃんが就職したころかしら? ろくに挨拶もできない男とつき合ってて心配だ、あんなつまらないやつと結婚させるために育てたんじゃない、とか言い出して、兄たちに過保護が過ぎるって大笑いされて」
 駒子は、探偵に写真を撮られていた過去の交際相手を家族に紹介したことはなかったし、どんな人だとも話したことはなかった。
「そんなこともあったわねえ。口では、和真くんのことも駒子ちゃんのことも育て方を間違えた、親の言うことなんか全然聞きやしない、なんて言ってたけど、いつも話すのは二人のことばっかりだったのよ。和真くんは意地張って帰ってこないけど、駒子ちゃんに子供ができたら手伝うって言ってたの。そんな父親、めったにいないわよ」
「そうよ、子供はなかなかうまくいかないこともあったから、孫は理想の子育てをするんだ、とまで宣言しちゃって。兄たちは、和彦はほんとに真莉さんと子供のことばっかり考えてるんだなって呆れてたけど、私たちはちょっと羨ましいくらいで。
うちの主人なんて子育てなんか何にもしてくれなくて、孫だって気が向いたときにちょっとかまうくらいで」
「駒子ちゃんがお嫁に行くのを見られなくて、ほんとに残念だったと思うわあ」
 悦子から受け取った、海岸で駒子と和彦が写っている写真では、後ろに立つ和彦が駒子の肩に手を回して満足げに笑っている。駒子はカメラのほうに視線を向けていなかった。
 急にこみ上げてきた吐き気に、駒子は耐えた。
「父は、母が子供だった私に怒鳴っても物を投げつけても、全然助けてくれなかったです。ほら、あの壁の下のところ、穴が開いてるでしょう? あれも母が本で何度も叩いて……」
「ええっ! 真莉さんってそんなにひどいことをしてたの!」
「和彦が苦労してるとは散々聞いてたけど、まさかそこまでとは……」
 伯母たちは大きな声を上げ、穴の開いた壁を振り返った。
「私が親だったら、子供を助けます」
 駒子ははっきりと言った。
「あのね、あなたはお母さんのことを悪く思いたくないのかもしれないけど、和彦がどれだけ振り回されて後始末をしてきたか、知らないんでしょ。娘のあなたにこんなこと言いたくなかったけど……」
「和彦がそんなに惚れ込んだ人なら仕方ないって黙ってたけど、和彦が働いたお金だって真莉さんの実家の借金返済に使ったのよ。不満はあったけど叔父の会社をやめなかったのも、早く帰宅して真莉さんを手伝うためだったのよ。
 助けてくれなかったって言うけど、真莉さんのほうを注意したらかえって逆上して駒子ちゃんになにするかわからないから、その場では取りなしてたのよ。お父さんのつらい気持ちが、子供のあなたには通じなかったのは仕方がないかもしれないけど、お父さんを責めるなんてあんまりだわ」
「その分、駒子ちゃんをかわいがってたんじゃない。駒子ちゃんの話をするときは、楽しそうだったわよ。大学生になっても、家に帰ったらなんでも話すんだ、おれに聞いてほしいみたいでさ、なんて」
 そう、ずっと奇妙だった。
 駒子は、この家の片付けを始めてから思い返した沼津の家や、伯父伯母たちがたまにこちらに来たときの会話の断片をつなぎ合わせようとしていた。私はそんなこと言っていない。父が話したという「駒子」のことはなにかの勘違いや間違いじゃないかと思っていた。もちろん、ときどき「違う」と彼らに言ったことはあったが、いつも、なに言ってるの、照れなくても、というような、ちょうど今の伯母たちのような言葉で流され、軽い笑いに変えられてしまっていた。そしていつからか駒子は、彼らの話すことになにも反応しなくなっていった。
「全然話してません。父にも、母にも、私は自分のことは話さないようにしてました」
 駒子の硬い声に、伯母たちは話の方向をずらした。
「まあ、親子のことはね、私たちからはわからない難しい部分もあるんでしょうね。知らなくてごめんなさいねえ」
「機嫌直してちょうだい。和彦が悲しむから」
「これだけはわかってほしいのよ、和彦はほんとうに駒子ちゃんのことを愛していたわ」
「そう、ほんとうにそう」
 悦子は、駒子の膝に手を置いた。
「……誰のことなんですか?」
 駒子は、自分を見つめる伯母たちを交互に見て、言った。
「その、父が愛していた『駒子ちゃん』って。少なくとも、ここにいる私のことじゃないです」
 しばらくの沈黙の後、眉をひそめて幸子が言った。
「真莉さんになにか言われたの? そうでしょ」
「そうよ、今日だって、駒子ちゃんになにもかも押しつけて。私たちに連絡もないとはね」
「まあ、この家のことを私に押しつけてるのはその通りですね。昔のことは思い出したくないのかもしれないです。でも、父のことに関しては、母とはなにも話してません」
「なにも話さないだなんて、ひどいわねえ」
 これ以上話しても仕方がない、と駒子は思った。それは二十年も前に、父の親戚たちの間にいてあきらめたのと同じ感情だった。
 私はあなたたちのかわいい弟の思い出を壊すつもりはありません。と、駒子は言いたかった。だから、私の話を否定しないでください、と。しかし、言うつもりはなかった。
「駒子ちゃんも、もっとお墓参りに来なさいね」
「お父さんが悲しんでるわよ」
 沼津にある父の墓に最後に行ったのは、三年ほど前だった。お盆の時期に長野から戻ってきていた母が急にいっしょに行こうと言ってきたのだった。高台にある寺だが、墓地からは海は見えず、とても暑かったのはよく覚えている。
 駒子は、そうですね、とだけ答えた。
 伯母たちは、十枚ほどの写真と時計や万年筆を持って帰ることになった。
「体に気をつけなさいよ。一人暮らしはすぐ不摂生になるから」
「いつまでも一人で気楽なのもいいかもしれないわね、今どきは」
「それもそうねえ」
 銀座で買い物をしてから帰るという伯母たちに、駒子がアプリでタクシーを呼び、少し先の急行が止まる駅まで乗って行ってもらった。
 二階に戻ると、部屋の中は妙に静かになった気がした。
 残った荷物、駒子が少しずつ持って帰ったものと、今日伯母たちが引き取った紙袋一つ分の写真や日用品以外は、全部処分する。母が手配した業者が、再来週にはすべて運び出す。そのときには、母と駒子が立ち会うことになっていた。
 業者が来る日は、さすがに母も来るだろう、と駒子は思っていたが、少しずつ不安になり始めていた。

 もう持って帰るものはなにもなく、電車に乗った駒子は、伯母たちの話したことを思い出しては考えていた。
 各停電車の車窓から見える風景は、実家に住んでいたころに比べていつのまにかずいぶん変わっている。新しいマンションが増え、駅前にあったスーパーがなくなっていたりした。時間が経ったのだ、と駒子は思った。
 自宅の最寄り駅で降りて信号待ちをしていると、道路の反対側で車椅子に乗った人とそれを押す人が待っているのが見えた。
 真莉ちゃんが年を取って介護が必要になってもぼくがいるからだいじょうぶ、妻の車椅子を押して歩くおじいさんを見かけていいなと思って。そう父が言っていたのを思い出す。考えてみれば、父はなぜそんなことを言っていたのだろう。女の人のほうが長生きすることが多いのに、父より年下の母の介護をするのを想像していたのだろうか。車椅子なんて必要なく歩いて散歩できるほうがいいのに。
 信号が変わり、こちら側で待っていた人たちも向こう側の人たちも歩き出した。車椅子に座っているのは年配の男性で、押しているのは息子らしき人だった。すれ違う彼らをなんとなく目で追った。彼らは会話はしていなかった。
 横断歩道を渡りきり、住宅街を家に向かってしばらく歩いた。
 ああ、そうか。と駒子は思った。
 父は、母が乗った車椅子を押したかったのだ。歩けなくなった母の車椅子を押して、自分が行きたい方向に行きたかったのだ。
 さっき伯母たちが言っていた「駒子ちゃん」のことも、孫には理想の子育てをしたいと言っていたのも、父が与えたらそれに応えてほしかったということだ。与えたら、父の希望通りになること。それが父が求めていたことだった。
 いつも母の言動に振り回されていた父は、少なくとも周りの人はそう認識していた父は、自分がいなければなにもできない母といっしょにいたいと思っていたのだ。
 そう思い当たったところで、駒子は笑いたくなった。なぜ笑いたいのか、自分でもわからなかった。とにかく早く家に帰って何か食べたい、と思った。
「こまっく」
 うしろから呼びかけられた声に振り向くと、千景(ちかげ)が歩いて来ていた。
「千景さん、仕事の帰り?」
「うん。今日はセミナー担当で」
 千景はセミナー講師をする日はいつもの出勤時とは違うスーツ姿で、暑そうだった。
「こまっくは、実家の片付け行ってたんやっけ」
「そう。もうほぼ終了」
「お疲れさん」
 駒子はほっとして、千景と並んで歩いた。
 午後六時近いがまだ空は白っぽい明るさで、暑いのは苦手だが日が長い季節のほうが好きだと駒子は思った。
「さっき、突然思ったんだけど」
 千景を見て、駒子は言った。
「私が自分の人生を生きることが、親が思ったのじゃない私を生きることが、最大の親孝行だと思うんだよね」
 千景は黙って聞いていた。
「そして、親が私にしたことに対して、正当に怒ることが、私ができる、できる限りのことなんだなって」
 駒子はゆっくりと息をついた。少し楽になった気がした。
 しばらくして千景が、
「……ようわからんけど、たぶんそうなんやと思う」
と言った。
 駒子は、大きくうなずいた。