「命を諦めること」は復讐の意味を成さない

二度目の入院から退院したのち、私は地元のとある企業に就職した。それは私の意志ではなく、両親が勝手に決めたレールであった。父は役所勤めだけあり、良くも悪くも顔が広い。

父のツテですでに取り決めが交わされた会社に、形だけの面接に行く。その道中に、踏切があった。一瞬、思考がそちらに引っ張られたが、すぐに我に返った。この頃の私は、おそらくすでに悟っていたのだと思う。命の終わりをどんなに願おうとも、自分が死にきれないことを。

何度も何度も死のうとした。実際、危ういところまでいったこともある。しかし、結局は生き残ってしまう。助かってしまう。それは、私の本能が生きることを望んでいたからにほかならない。

たとえ救急車を呼んだのが交代人格であったとしても、交代人格は私の意識と細い糸でつながっている。彼らと私は別人格だが、彼らの意志は、ある意味では私の意志でもある。

何より「死ぬ意味」なんかないことを、親元に戻ったからこそ痛感していた。私が死んだところで、彼らは己を省みることはない。あくまでも「私が(娘が)」おかしかったのだと主張し、自分たちの非は一切認めないだろう。

両親が私を虐待していた証拠はなく、私が精神を患っていた証拠だけはある。今死んだとて、両親は一切腹を痛めることはない。むしろ、厄介払いできて喜ぶ可能性のほうが大きい。そう考えると、「自殺は復讐の意味を成さない」のだと気付いた。

いじめにしろ、虐待にしろ、何らかの被害者が自殺をすることで、己の人生をかけて償おうとする加害者は、ほとんどいないのではないだろうか。

みんな都合よく罪を忘れて、「今夜は何を食べよう」とか、「今度の休みはどこに行こう」とか、しっかり“明日”を見据えて日々を過ごしている。自分が痛くなかったことを覚え続けていられるほど、人間の心はまっすぐでも真っ白でもない。

だから、誰かに罪を認めさせるために自殺を考えている人は、どうか思いとどまってほしい。加害者が己を省みる力を持っている人間なら、とうに罪に向き合い、償いのために動いているはずだ。

それができない人間は、被害者が死んだとしても、それさえも相手のせいにして「自分は悪くない」と事実から目を背ける。「もともと不安定な人間だった」と、精神疾患を理由付けにされるのがオチだ。

現行法では、被害者の自殺を理由に加害者が罰せられることはない。どんな理由があろうとも、「自殺」はあくまでも「自殺」として処理される。理不尽だと、心底思う。だが、私たちはそんな理不尽な世界で生きていくしかない。ましてや、命を投げ出す代償は、加害者ではなく自分を愛してくれている人たちに跳ね返る。

踏切を振り返り、私が死んだら悲しむであろう人の顔を思い浮かべた。数人の顔が浮かんだことに、自分でも少し驚いた。思い浮かぶ顔がゼロになるまでは、生きていかねばと思った。