かつては“得手”派だった

2023年の誕生日を迎える以前、仕事の先輩とこんな会話があった。彼女も私と同じく、離婚歴なし、プロの独身である。

「今年の誕生日はどうするの」
「とりあえず友達と好きなものを食べるくらいですかね」
「昔、盛大に祝ってたじゃん」
「はい」
「あれ、なんとなく羨ましかったんだよね」
「おたんぱ(お誕生日パーティー略)、ですか」
「結婚式か葬式でもない限り、数十人も集まってくれないよ。あれは人徳」
「人徳と見られる裏では、600人以上の知り合いに対して、毎日マメに誕生日お祝いメールを送る……という“いい人苦行”もありましたけどね。それなら、先輩。おたんぱを今年からやったらいいじゃないですか」
「とんでもない。おばさんたちが一斉に集まったら、七面倒臭いことになるよ」
「まあ……危険ですよね……そこはかとなく揉め事の香りがします……」
「子どもや家族がいたらまた違ったのかな、誕生日」
「それは関係ないですよ」

先輩が密かにうらやましがってくれていた、おたんぱ。30代前半までは友人、知人を集めて、盛大に誕生日を祝ってもらっていた。「本日の主役」のたすきをかけて、盛大に飲むアレだ。

とはいえ、私の誕生日を心底祝ってくれていたのだろうかと思うと、今さらながらやや疑問符はある。実際のところ、誕生日を口実にただ集まっていただけで「この人誰?」という参加者もいて、ちょっとした異業種交流会のどんちゃん騒ぎだったのかもしれない。実際、おたんぱ当日に、激務による疲労から私の具合が悪くなって、退席。主役不在のまま宴が進行されて盛り上がったらしいので、誕生日の存在意義とはそんなもの。

でもそれでいいのだ。

自身も含めて、人は何かにかこつけて酒を飲んで楽しみたい。例えばこれから続く忘新年会、春の歓送迎会。夏はお盆休みにBBQ、秋になったらハロウィーンと一年中、騒ぐ理由を一年中探している。ただ集合するためには発起人や幹事が必須。この技術は得手不得手があると思うので、「やるわよ!」と誰かが決めたら、それについていけばいい。おたんぱを頻繁に開催していた頃の私は、単にその“得手”派だったということだ。

では何故そんなことを企画していたのかというと、今から10年以上前にあった、私の若さが起こした承認欲求だったと推測する。

今でもSNSを検索すると、誕生日はたくさんの人に祝ってもらうことがステイタスであるという投稿が次々に表れる。今、インフルエンサーたちが「#birthday #誕生日 #party #最高 #感謝」とハッシュタグをつけてアップしていることと、私のおたんぱは大差はない。ただ承認欲求のためには、自分以外のメンバーの誕生日には幹事をすることも求められたので、宴を開くというのは一筋縄ではいかなかった。