そんな母がレビー小体型認知症を発症したのは、95歳のときです。自慢の母が突然、暴君となったことを私は受け止めきれなくて、「親子心中するしかない」と追い詰められたことも。

母が施設に入ることを断固拒否したため、デイサービスや訪問看護の看護師さん、訪問診療のお医者さま、ヘルパーさんなどみなさんの力を借りながら、95歳から100歳8ヵ月まで自宅で介護をしました。

母が亡くなったのは、2021年の10月4日。そしたら翌日から誰も来なくなっちゃった。9時に必ず「ピンポン」が鳴って、看護師さんやヘルパーさんがいらしていたのに……。そのとき思い知らされたのは、やはりこの家の主は母だったということです。主なきこの家は廃墟だ。母がいないとこの家は家じゃないんだ。それがどうにも寂しくて。

あれは確か、コンサートの初日を控えた前の晩のことです。稽古場でお稽古を終えると、スタッフは17時か18時には帰ってしまう。「明日10時にタクシーがお迎えに上がります」と言われ、大きな家にひとりでいる不安と寂しさから、夜逃げしようかと思いました。

3歳から舞台に立っている私ですが、こんな状態が続けば、たくさんのお客様をニッコリ迎えるのは無理になる。

たまらなくなって、長年お世話になっている心療内科の先生にお話ししたのです。すると、先代から診ていただいている医師が、「あの家にずっといるのもいいけれど、ちょっとでも動くつもりがあるなら、70代のうちに引っ越しなさい。80になると判断力が鈍ります」と。

そのとき私は77歳。現役の間は稽古場のある家に住み続けたいと思っていたけれど、心のことを考えると、そんなこと言っている場合じゃないような気がしました。

稽古場は別の場所を借りればすむことだから。こうして77歳での初めての引っ越しへ向けて動き出したのです。