三十年ほど前、あたしは、ほんとうに、男たちと、夫含めて、ぜんぜんうまくいってなくて、そのストレスがこり固まって鬱になり、それを一切合切「父」という言葉にこめてぶちまけた。まあそういう詩だ。
それを朗読するからおどろおどろしいし、ユウコさんはブトー系の動きでそれを表現しようとするから、さらにおどろおどろしい。そしてカノコの箏は六段とか春の海とかじゃなく、インプロ(即興)箏なので、砂をかけたり叩いたりこすったりする。やはりいくらでもおどろおどろしくなるのだった。
「あんた、もう少しキレイな音を出してよ」とあたしがカノコに言う。「えー、そんなのやりたくない」とカノコが反発する。「おかあさんが入ってからカノコが入るのに、おかあさん遅れる」とカノコがあたしに言う。それが、声も話し方も、昔のまんま。40になる女が、日本語をしゃべると、すっと12歳に戻ってしまう。この場で「おかあさん」はへんだから、呼び方変えてよと言ってるのに、なかなか改まらないしね。
ユウコさんは身ひとつで、母になり娘になって大活躍だが、娘が生き別れた母に会う場面で、ユウコさんが母になり、カノコが娘になって、二人で箏を抱えて歩く。カノコはせつせつと箏を弾き続ける。そのときあたしは柱の陰で、娘に会いたいとか自分がその娘ですとか朗読しているだけで、目の前で、自分の娘が、よその女(ユウコさん)とぴったり母娘になるのを見ている。これも、今までに味わったことのない、めちゃくちゃ不思議な気分である。