4000人の暮らしを支えた 充実した住環境とインフラ

昭和炭鉱がある昭和地区の炭鉱町の人口が約4000人を記録したのは石炭生産が最盛期を迎えた1954(昭和29)年だ。事業主の炭鉱事業者社員約850人のほか、鉱員やその家族などが炭鉱町で暮らしていた。また、生活に必要な施設の職員も定住していた。

人口が増えれば、生活を豊かにするための施設も増える。最盛期を迎えた昭和地区の炭鉱町には炭鉱事業者社員住居が100戸以上、鉱員住居が450戸以上もあった。そのほかにもアパートも10棟ほど建っていた。

鉱員の住宅は1棟4〜6戸の長屋式で風呂、トイレは共同というケースがほとんどだったという。鉱員の住宅も社宅扱いが大半だった。そのため、たとえばガラスが割れたときでも費用や作業は会社負担となり、住人自らガラスを購入してつけ替えるといった作業は必要なかった。

鉱員の給与水準は高く、しかも水道光熱費は会社持ちのため、生活コストはさほどかからなかった。

計画的に設計された昭和地区の炭鉱町は住民の生活に必要なあらゆる施設も整っていた。小、中学校、沼田警察署の駐在所、町役場出張所兼公民館、郵便局、寺院、図書館、理髪店などなど。

昭和炭鉱事務所(写真:沼田町産業創出課)

沼田の市街地にはまだ開設されていなかった保育所も昭和地区では1954(昭和29)年に設置されていた。もちろん、病院もあった。炭鉱で働く鉱員は坑道の崩落や有毒ガスなどの危険と隣り合わせの労働環境。

さらに、怪我をしても昭和炭鉱ほどの山奥からでは病院がある街までのアクセスが難しい。そのため、病院には当時最新鋭の外科医療体制が整っていた。この昭和炭鉱病院は炭鉱町で最も立派な建物といわれていたほどだ。