炭鉱業者が買い取った御料林を建設隊が泥に埋もれながら開発

昭和炭鉱の権利を得た事業者は工業用から一般暖房用まで石炭の販路が広く、工業界が不況に陥ったとしても影響を小さく抑えられる堅実な経営方針が特徴だった。この企業体制が炭鉱町の形成にも反映される。昭和地区は周囲の炭鉱町とは異なる計画的で健全な街として発展していくのだ。

昭和炭鉱開発前の昭和地区は御料林(ごりょうりん)、つまり皇室所有の森だった。それが払い下げられ、炭鉱事業者が開発したのが始まりだ。

『ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』(編著:風来堂、著:宮台真司・生駒明・橋本明・深笛義也・渡辺拓也/清談社Publico)

開発の開始は1929(昭和4)年だ。現地に送り込まれた建設隊は原生林を伐採し、腰まで埋まるほどの泥をかき分けながら開発作業を進めたという。

開発が始まる6年前の1923(大正12)年に沼田町幌新(ほろしん)地区ではヒグマに襲われて4人が命を落とし、3人が重傷を負うという凄惨な事件が発生していた。それ以外にも小学生が山道で殺害されたり、畑の草取りをしていた女の子が襲われて重傷を負ったりと、当時、人がヒグマに襲われる事件が多発していた。

昭和炭鉱は幌新のほぼ真北に位置していたため、建設隊はいつ出没するかわからないヒグマにおびえながらの作業だった。

過酷な環境下で炭鉱建設と街づくりが並行して行われていった。建物の建築材料を生産する製材工場、発電所、選炭場、数十戸の住宅などが建ち、昭和炭鉱が操業を始めたのは開発の開始から1年後の1930(昭和5)年のことだった。