千数百人が避難

さらに、翌日夜半には雄山山頂の大穴(おおあな)火口からも噴火し、北東の方向に火山灰を降らせた。24〜26日が噴火の最盛期で31日以降には弱まったが、8月に入り、再び活発化。降灰などもあったが、8日には終息した。

噴火は実に25日近くも続き、死傷者のほか、牛が35頭、全壊、焼失した家屋が24棟と大きな被害をもたらした。

そして、22年後の1962(昭和37)年に再び噴火災害が襲う。このときの噴火活動は30時間程度で終息している。

雄山山頂から赤場暁方向に割れ目状に噴火口が多数でき、活動最盛期には溶岩流は沖合まで流れ、島の北東部だけでなく、三宅島から北西に45kmの新島(にいじま)まで火山砂[*]や火山灰を降らせた。このときの噴出物の総量は1940(昭和15)年の災害に比べれば、およそ半分の約2000tと少なかった。

【写真】00年の噴火で泥流の被害を受けた椎取神社。笠木だけを残して埋まったかつての鳥居が、噴火のすさまじさを物語っている(写真提供:清談社Publico)

三七山(さんしちやま)という噴石丘ができ、家屋5棟や道路、山林、耕地にも被害があったが、死傷者はいなかった。しかし、噴火活動が落ち着いてからも激しい地震がたびたびあったため、9月1〜14日、小中学生や関係者など千数百人が島を出て千葉県館山(たてやま)市方面へと避難したのだった。

*火山砂……火口からの噴出した溶岩流を除いた噴出物である火山砕屑物のうち砂粒程度の大きさのもの。学術上の火山砕屑物の分類では使用されない名称。