大噴火で数年におよぶ全島民避難
三宅島[東京都三宅村]
学校も体育館も溶岩の下に……爪痕は当時のまま、いまも残る
冷えて固まった溶岩が一面に広がる黒い大地や、溶岩に埋もれた学校の校舎……。伊豆諸島のひとつ、三宅島の西部に位置する阿古(あこ)地区には、こんな衝撃的な光景が広がっている。
1983(昭和58)年10月3日15時23分、島の中央にそびえる雄山(おやま)の南西山腹・二男山(になんやま)付近の割れ目で溶岩噴泉[*]が起きた。さらに、上下に成長した割れ目火口から3方向に溶岩が流れ、そのうちのひとつの溶岩流が阿古地区を襲ったのだ。
噴火の開始から阿古地区に溶岩流が到達するまでは、たったの2時間ほどだった。阿古地区は島最大の集落だった。約1300人の住民が暮らしていたが、人々は家財道具などを置いたまま、避難バスに乗って島の東側の坪田(つぼた)地区方面へと逃れた。
溶岩流が集落に到達したのは、最終の避難バスが集落を出発したわずか10分後のことだった。溶岩流は約400棟の家々を埋め、焼き尽くした。このとき、消防団や警察、医者、教職員たちは最後まで集落に残っていたが、溶岩で道をふさがれたため、間一髪、漁船に飛び乗って逃げたという。幸いにも人的被害はなかった。
溶岩流は阿古小学校、中学校の校舎も襲った。この日は前日の運動会の振替休日で、幸いにも校舎に人は少なかったのだという。校舎は2階付近まで溶岩に埋まった。小学校と中学校の間に建っていた体育館も内部が溶岩で埋め尽くされ、屋根を支えていた鉄骨も曲がってしまった。また、黒い地面の下には、ほかにも公共施設やたくさんの家々など集落がまるごと埋まっている。
噴火の被害はこれだけにとどまらず、島の北東部にあった椎取(しいとり)神社も泥流[*]によって社殿が屋根部分まで、鳥居も笠木(かさぎ)だけを残して埋まってしまった。社殿の周囲の森も火山ガス[*]によって大半が立ち枯れた。現在では、新しい社殿と鳥居が建てられているが、かつての鳥居も地面に埋まったまま残されている。
このときの噴火活動は約15時間で終息したが、噴出物総量は約2000万tにおよび、居住区域だけでなく、山林や耕地も被害に遭い、溶岩流に飲み込まれた。
溶岩流は約1000℃もの高温。3カ月近くが経過しても、固まった溶岩流の上を歩けばゴム長靴の底が溶けてしまうほどで、200日が経っても内部は500℃もあったという。
*溶岩噴泉……溶岩の粘性が低く、噴水のように空中に噴き上げられる現象。
*泥流……火山泥流。火山噴出物と水が混じって地表を流れる現象。降雨によって火山噴出物が流動する火山泥流のことを土石流ともいう。
*火山ガス……地下のマグマに溶けている揮発性成分が発泡し、水蒸気となって地表に放出される高温のガス。死亡事故や健康被害などを起こす場合がある。