残された妻としての気持ち

思い出すのは、ベッドの傍らに蒲団を敷いて寝た最後の一週間だった。

亡くなった翌年の、瀬戸内寂聴と大河内昭爾との「友として、夫として、そして作家として」と題した吉村の追悼鼎談で、津村は吐露している。

〈吉村が亡くなってから家じゅう、町じゅう、思い出すことばかりで、もうこの家も要らないし、吉祥寺の町も嫌になってしまい、私のことも吉村のことも誰も知らないどこかの町へ行って、そこにマンションでも借りて住もうかなと思ったのです。〉(「小説新潮」平成19年4月号)

そう願っても、家には弔問客が途切れず訪れていた。吉村の未発表作品を刊行するため、編集者の出入りもあった。作品のゆかりの地での回顧展の対応など、吉村に関する様々な仕事に追われた。とても家を離れて逃避するわけにはいかなかった。

人の出入りの多い家では泣くこともできず、津村は井の頭公園のはずれの、周囲に人家がないところで声を限りに泣いた。

自伝的小説でも次のように記す。

〈育子は50年も連れ添った夫が死を覚悟したことさえ察せずに、夫と最後の会話を交わすことはなかった。(略)
仕事を優先させている妻をかたわらに、夫は凍るような孤独を抱いて死んだに違いない。人々は、あれほどの力作を数多く書き遺した満足感があっただろう、と言う。しかし、霊界を信じない夫が闇の世界へ一人で旅立って行く時、この世に残した仕事に対する満足感など思い浮ぶ筈はない。〉(「声」『遍路みち』所収 講談社文庫)