「よそ者」な感じで大阪に暮らしていた日々

私も履正社の入学式のとき、式の最中どこもかしこも関西弁の人がお話ししているのを聞いて(当たり前だが)、改めて「外国」に来たような感覚を覚えた。校長先生が関西弁でお話しになっているのを聞いていて、やっとじんわり「ああ…息子を家から遠くに出したんだなぁ」と気づき始めた。
私にとっては最後の最後まで、その感覚が薄れることがなかった。

そこから毎日関西人に囲まれて、学校やその土地に馴染んでいけばいくほど、翔大の言葉はみるみる「夫のケンカモード」な言葉に変わっていった。それがわたしには少し心配でもあり、大阪の生活に馴染んでいる証拠だという、少しの安心でもあった。今では翔大、関西弁ペラペラだ。

冷蔵庫やシンク下の大量の調味料を処分してきました。 自炊は大変だったと思うけど、何を作っても「俺は天才かもしれん」と言って美味しそうに食べていたのを思い出します

ずっとこれでいく、と言っている。いや、そろそろ「おかん」はやめて。そう呼ばれて「うん、だからさぁ…」と返す東京の人間もまあまあ恥ずかしいのである。

いやきっともっと穏やかで温かな関西弁もあるに違いない。
わたしがよく知らないだけだ。
義理の母の生粋の神戸の言葉は、いつも抑揚が優しくて温かい。…ただよく聞くと言っていること自体かなりキツい内容だったりするので注意は必要。博多弁だって同じようなものかな。

いつ何度行っても「よそ者」な感じで大阪に暮らしていた日々も、そろそろ終わりに近づいてきた。

3年間で思い通りにいかないことが多かったなか、唯一息子もわたしも安心して寛げる部屋を大阪に持ったことは、とても幸せなことだった。

まあ、これからも何度も実家には帰ってくるので
大阪にお別れでもないのだけれど。