5年間部屋子を務める
松竹が白亜のムービー・パレス、道頓堀松竹座開業を前に、松竹楽劇部を創設したのは、1922(大正11)年4月だった。もちろん宝塚歌劇団に対抗してのことである。
12月の中之島公会堂でのダンス披露、翌年2月の京都南座でのテスト上演を経て、1923(大正12)年5月、松竹座専属として「アルルの女」を上演した。
静子が入部した1927年9月に宝塚歌劇団が上演した、日本初のレビュー「モン・パリ 〜吾が巴里よ!〜」は、宝塚のオーナーである小林一三の命を受けて欧州を視察した劇作家・岸田辰彌が体感したパリや欧州の風景を再現。のちに「レビューの父」と謳われる白井鐵造が振付を手がけた。
この「モン・パリ」は日本で初めて「レビュー」という言葉が冠された作品だった。この大ヒットを受けて、松竹楽劇部でも洋舞を取り入れ、1928(昭和3)年の「春のおどり」でレビュー・スタイルが確立された。
松竹楽劇部の黎明期、押しの一手で入団した静子は、研究生として、安浪貞子、瀧澄子、若山千代、河原凉子、杉村千枝子たち幹部の部屋付きを命ぜられ、楽屋での雑用一切を切り盛りした。
メンバーよりも2時間前に出勤して、幹部が楽屋入りするまでに、部屋を掃除して化粧前を整える。先輩たちが楽屋に入ると、洗濯、縫い物、買い物をこなす。
その間に、歌と踊りのレッスンをして、自分の化粧や着付けもしてステージに飛び出る毎日だった。
小柄で、要領良くチョコマカと動く静子を、先輩たちは「豆ちゃん」の愛称で可愛がった。よく気が付いて、なんでも器用にこなすので、新人が入ってきても「豆ちゃんでないとあかん、あかん」と重宝がられて、5年間も部屋子を務めることとなった。