日陰の道
さて、嘉子は先生の反対を押し切って明大女子部に入学手続を済ませたのですが、その時法事でたまたま東京にいなかった母ノブが、帰京した後でそのことを知り、やはり激しく反対しました。
ノブは後に、熱心な理解者・応援者になってくれるのですが、この時は、将来自立できるかもわからないし、結婚できなくなると心配したのです。
しかし、開明的な父貞雄が嘉子の背中を押してくれ、一緒にノブを説得してくれました。こうして、1932(昭和7)年4月、嘉子は法律の勉強を始めることができたのです。
当時は、女性が法律を勉強するということは、「変わり者」というイメージをかなり持たれるものだったと嘉子は後に振り返っています。
嘉子自身、友人から驚かれたり、呆れられたり、「こわい」と言われたこともありました。
日陰の道を歩いているような悔しさが、嘉子の心を襲うこともありました。
嘉子は後に、教育における差別こそが戦前の男女差別の根幹だった、人間の平等にとって教育の機会均等が出発点として重要であると述べていますが、当時はそのような差別を実感することもたびたびであったようです。