契約を断る判断は平手代にもあった
ただし、例外もある。たとえば安政元年(1954)12月の事例では、「右聴き合わせましたところ、堺筋北久宝寺町(さかいすじきたきゅうほうじまち)の泉屋という者へ〔担保物を〕銀二七、八貫目の家質に差し入れておりますので、取り組み(契約)の断り(謝絶)を〔顧客に〕知らせましたこと、12月17日、聞き合わせ池田庄三郎(いけだしょうざぶろう)」とある。
庄三郎は当時、平手代だ。一方、安政7年正月の事例では、「右承りましたまま記す。右のとおりにてあまり身体向(しんだいむき)(家計状態)がよろしくないとのことなので、断り(契約の謝絶)を〔顧客に〕知らせましたこと。申(万延元年)正月5日、〔清水〕泰二郎(泰次郎)」とある。
これらの例によると、すでに顧客の担保物が他者への質に入っていたり、顧客の家計状態がよろしくないと手代が見聞きしたりして、契約を結ぶ見込みがないときには、平手代の判断で契約を断っていたことがわかる。
よって正確にいえば、平手代には契約を承諾する権限はなかったが、見込みがないと判断した際に契約を断る権限はあったことになる。