なぜ勇助は散財を続けたのか

話を二代勇助に戻そう。上記をふまえると、勇助は遊興や遊芸に散財しすぎて、親族たちから強制的に隠居させられたことになる。しかも、勇助は、隠居したあともなかなかに癖のある人物であったようだ。

このような勇助の処遇と人物像は、これまでの研究で明らかにされたことはなかった。信用調査書が新たな情報を提供した好例である。

結局、大坂両替店の手代は、吉野五運家が富裕層であると認識しつつも、家長への強制隠居を起こした吉野家に不安を覚え、融資を迷う京都両替店に反対の意を示した。身上が至極よいと評価されても、強制隠居の実行は極めて大きい欠点となったことがわかる。

なお、なぜ勇助は、強制隠居に及ぶまで散財を続けたのか。これは必ずしも、強制隠居を恐れず放漫であったことを意味しない。四代寛斎(かんさい)も五代庸斎も、家伝の合薬を宣伝するためには交際費を惜しまなかったというから〈宮本又次『大阪商人』(講談社、2010年)〉、勇助は、本気で遊興・遊芸への散財が家業拡大の必要経費だったと考えていたのかもしれない。

だからこそ、彼は大言壮語を吐く者と評されたのであろう。勇助にとっては散財が合理的であったが、親族にとっては危険であった。

 

※本稿は、『三井大坂両替店――銀行業の先駆け、その技術と挑戦』(中公新書)の一部を再編集したものです


三井大坂両替店――銀行業の先駆け、その技術と挑戦』(著:萬代 悠/中公新書)

元禄四年(一六九一)に三井高利が開設した三井大坂両替店。元の業務は江戸幕府に委託された送金だったが、その役得を活かし民間相手の金貸しとして栄えた。本書は、三井に残された膨大な史料から信用調査の技術と、当時の法制度を利用した工夫を読み解く。そこで明らかになるのは三井の経営手法のみならず、当時の社会風俗や人々の倫理観だ。三井はいかにして日本初の民間銀行創業へとつながる繁栄を築いたのか。