不品行で隠居させられた勇助

さて、この信用調査で登場する勇助とは、おそらく二代の融斎(ゆうさい)であろう。寛政6年(1794)成立の洒落本(しゃれぼん)『虚実柳巷方言(きょじつさとなまり)』(大坂の遊里での会話や言動に関する文学作品)では、融斎は、「粋株(いきかぶ)」(遊興に秀でた者)・「大尽株(だいじんかぶ)」(大金で豪遊する者)の一人に数えられ、素人芝居(非役者の素人狂言)の演技者でもあったという〈宮本又次『大阪商人』(講談社、2010年)〉。

信用調査によると、二代勇助(融斎)は不品行で家長の名前(五運)を取りあげられ、隠居の姿になっていたとある。調査当時で勇助の年齢は40歳であったから、勇助は30代の若さで隠居したわけだ。

勇助の不品行の中身は、おそらく遊興や遊芸への大散財だが、ここでは「名前も退かせ」(史料原文は「名前も相退(あいしりぞ)かせ」)とあることに注目したい。これには、江戸時代の「家」制度が大きく関係している。

この「家」とは、固有の家名、家産、家業を持ち、先祖代々への崇拝の念とその祭祀を精神的支えとして、世代を超えて永続していくことを志向する組織体だ〈大藤修『近世農民と家・村・国家――生活史・社会史の視座から』(吉川弘文館、1996年)〉。

『三井大坂両替店――銀行業の先駆け、その技術と挑戦』(著:萬代 悠/中公新書)