やがて内裏を下り

徽子女王の女御としての20年にわたる日々は、決して幸せなものではありませんでした。

『謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

娘の規子内親王と皇子を儲けましたが、皇子はすぐに死亡。一方、母方の従姉の“ライバル女御”藤原安子は冷泉、円融天皇になる皇子に恵まれ、中宮になりました。

また、母が亡くなった後の、父の重明親王の継室(後妻になった正室)で安子の妹・藤原登子が親王の死後に村上の後宮に出仕。天皇の寵愛を受けたのも、徽子には不幸なことでした。

やがて徽子は内裏を下り、自邸(もとの重明親王の邸)に籠ることが多くなります。そして康保四年(967)に村上天皇は在位のまま亡くなりました。

その後、徽子は娘の規子とともに自邸でサロンを開き、歌合などを催していたようなのですが、天延三年(975)に事態は一変します。円融天皇の斎宮(伊勢斎王)だった隆子女王が、斎宮で急死したのです。