歌に隠された「恨み」

「世にふればまたも越えけり鈴鹿山昔の今になるにやあるらん」

(生き長らえて、再び越えた鈴鹿山。昔が今によみがえったような)

彼女が近江と伊勢の境、鈴鹿峠を越えた時の歌です。徽子は緊張に包まれたあの日々を思い出しながら斎王の宮殿、斎宮に向かったのです。

写真提供:(C)2024映画「陰陽師0」製作委員会/『陰陽師0』4月19日(金)全国ロードショー(配給:ワーナー・ブラザース映画)

この歌は、『伊勢物語』第三十二段の

「いにしへのしづの苧環繰り返し昔を今になすよしもがな」

(昔々の織物に使った糸玉から糸を繰り出すように、二人の過去を今に戻したいのだけど)

を踏まえたもので、彼女が『伊勢物語』の早い時期の読者だったこともわかります。彼女の伊勢への再訪は、斎宮に文学サロンを花開かせました。

「大淀の浦たつ波のかへらずは変はらぬ松の色をみましや」

(大淀の浦に立つ波のようにここに帰ってこなければ、松の緑が全く変わっていいない様を見ることがあったでしょうか)

この歌は、娘の斎王が斎宮近くの「大淀の浦」で、伊勢神宮を参拝する前月に行う海の禊の儀で詠んだものです。斎王の祭祀は滞りなく、伊勢が常葉の松のように何も変わっていない、この知らせは都に届き、宮廷を安堵させた事でしょう。

しかしこの歌は、伊勢物語の第七十二段

「大淀の松はつらくもあらなくにうらみてのみもかへる浪かな」

(大淀の松のように待つことは辛い事ではないけれど、あなたは浪のように浦をみては帰るばかり、それは恨みます)

を踏まえています。この歌には「恨み」が隠されており、彼女の宮廷時代への屈折した思いが隠されているようです。宮廷で満たされなかった彼女の想いは、再訪した斎宮で果たされたのでしょうか。