「ぜひ音楽をきかせてほしい」という申し込みまで

大分合同新聞の記事(1963年4月26日付)によると、放送が始まった1951(昭和26)年5月は、旧竹田町の時代。一市民が駅にレコードを贈り、放送を始め、そのレコードが擦り切れて使えなくなってからは竹田町役場が補充した。

記事が掲載された1963年までの12年間で、使ったレコードは80数枚にのぼった。放送は改札係の担当。当時は1日30回の列車の発着があり、朝夕の通勤時間を除き1日20回ほどかけられた。「何時の列車で駅を通るからぜひ音楽をきかせてほしい」という申し込みまで届くようになったーーという。

「まだSL(蒸気機関車)が走っていた時代で、豊後竹田駅は、蒸気を作るための水の補給地でもありました。そのため停車時間が長く、『その間に音楽を聴きたい』という乗客からのリクエストがあった、という記録があります」と、元市立小学校教員で、竹田市ボランティアガイド委員会委員長の衛藤頼光さん。

当時のレコードの質が悪くて摩耗が速く何枚も取り換えたこと、駅長室の拡声器で聞かせていた等の記録がある。

戦後間もない当時は、国民全員が疲弊し、社会が混乱し、自治体運営も楽ではなかったはず。なぜ「駅メロ」が始まったのか。元竹田市職員で、現在は竹田キリシタン資料館の館長を務める後藤篤美さんは言う。

「『荒城の月』のメロディは、戦争ですさんだ人々の心を癒し、高揚させてくれたのでしょう。また当時の竹田町議会では、歴史と文化を前面に出したまちづくり、つまり『観光』を前面に出していこうとの決議がされています。現代でこそ同じように考える自治体は多いでしょうが、戦後の竹田町にこれだけの先進性があったのは、キリシタン文化があり、海外とつながりがあった影響があると思います。廉太郎が竹田の起爆剤となったのです」