祖父の時代は

そもそも、なぜ祖父はそんな大きなお墓を建てたのか。ひとことで言うと、成功の証です。聞いたところによると、家業の呉服商を継いだ祖父は、洋品店に転業。福岡だけではなく大分や長崎、佐賀などの呉服店にも転業を説いてまわり、一括して洋服の仕入れをすることで商いを大きくしていきました。いわば仲卸業です。

洋装化が進みつつあった時代背景もあってこれが成功し、屋号を「上野デパート」に改称。地域で一番の大きな店となりました。

当時、経済力のある家では、争うように大きな墓を建てるのが流行となっていたのです。祖母が言うには、結婚や養子縁組の際は相手の家の墓を見に行き、経済力を確かめるのが当時の習わしだったとか。

祖父は、中国の霊廟文化の影響で巨大な墓が多い長崎に視察に行き、それを参考に1930年にくだんの墓を建立したと言います。

祖父が建てる前には、実は「家の墓」と呼べるようなものはありませんでした。江戸時代までは、きちんとした墓石を設けるのは、大名家くらいのもの。庶民は土葬で、目印として丸い自然石を置き、その前に竹筒を挿して花を供えるのが一般的だったのです。