老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。
――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。
「もしもし、達也?」
母の声が耳元で響く。
「元気にしてるの? お店の準備は順調? 涼音ちゃんは元気?」
矢継ぎ早に尋ねられ、そのたび、達也は「ああ」とか、「まあ」とか、曖昧な声を出した。
それからしばらく母は、商店街の肉屋が店先で九官鳥を飼い始めたが、登下校の小学生が下品な言葉ばかり教えて困るだとか、庭の柿がまったく実をつけないだとか、どうでもいいことを話し続けた。
「山にいけば、誰も手入れをしていない柿の木があんなに実をつけてるのに、どうしてうちのは全然ならないんだろうね」
「日当たりの問題なんじゃないの」
気のない返事をしつつ、母の言いたいことは他にあり、タイミングを計っているのだろうと、達也は頭の片隅で考える。
要するに、あまりいい電話ではない。
「ところで、達也。あなたたち、婚姻届はもう出したの?」
やがて母が、いかにもついでと言った感じで、核心に触れてきた。
やっぱりね……。
胸の中で、達也は密かに溜め息をつく。
「いや、ちょっと、開店準備で忙しくて」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう」
母の声がひときわ大きくなった。
「両家の顔合わせをしてから、もう三か月近く経ってるじゃない。いくら忙しくたって、そういうことは、ちゃんとやらないと、向こうのおうちにだって失礼でしょ。涼音ちゃんとは既に一緒に住んでるわけだし」
そこまでまくしたてた後、母は少々口ごもる。
「お父さんが、毎日大変だよ。一体どうなってるんだって、やいのやいの言い始めて……」
ぶつぶつ呟かれた言葉に、さもありなんと、達也は額を押さえた。
今はまだ、母がとりなしてくれているのだろう。しかし、それが限界にきたら、父が単身でこちらに乗り込んでくることだってありうる。
基本、暇なリタイア親父だからな。
達也の心に焦りが湧いた。
嫌な予感が本当になる前に、早いところなんとかしなければならない。
〝向こうのおうち〟はともかく、涼音自身が夫婦同姓に疑問を唱え、婚姻届を出すことに二の足を踏み始めていることがばれたら、一体、どうなるだろう。
両家の顔合わせの席で、涼音に向かい「内助の功」だの、「飛鳥井家の一員になる」だの、鼻息を荒くしていた父親の様子を思い返し、達也は瞑目した。
「分かった。それについては、こっちでちゃんとやるから、親父にも心配するなって言っておいて」
「本当に、早いところ、きちんとしなさいね。結婚は、あんたたち二人だけでするものじゃないんだから」
母はなおも言い募る。
「あんたはいいけど、涼音ちゃんのほうは改姓手続きとかも大変なのよ。銀行口座とか、保険証とか、免許証とか、変更手続きしなきゃいけないものが、次から次へと出てくるの。お母さんも、大変だったわー」
途中から半ば独り言のようになった言葉を聞きながら、そういうこともあったか、と、達也はハッとした。
もしかしたら、その手の煩雑さも、涼音の「マリッジブルー」に拍車をかけているのだろうか。
その点に関しては、改姓する側に対しての自分の理解が足りていなかったかもしれない。
つまりは、もっと気を遣うべきだったのだろう。
「分かったよ」
達也は頷いた。
「本当に分かってるんでしょうね。いくら忙しいからって、婚姻手続きを、涼音ちゃんにばっかり押しつけてたら駄目なんだからね」
「あー、分かった、分かった」
しつこく念押ししてくる母をあしらい、「それじゃ、元気で」と、なんとか通話を終わらせる。
スマートフォンをキッチンテーブルに伏せ、達也は肩で大きく息をついた。
しかし、厄介だ。
プロヴァンスのアパルトマンで涼音に求婚したときは、これほど煩雑なことになるとは、正直、思っていなかった。
最愛の人と一緒に店を作るために、公私共にパートナーになることを選んだだけなのに、何故こんなに色々なことが付随してくるのか。
なにかにつけて〝結婚は二人だけでするものではない〟と言われ、干渉される。
〝式を挙げないのは非常識〟に始まり、〝向こうのおうちに申し訳ない〟も、耳にたこができるほど聞かされた。
涼音と自分が納得しているのだから、それでいいではないか。
父が遠縁の親戚にまで、「うちの愛想なしが嫁をもらう」と吹聴して回っていると知ったときは、本気で頭を抱えそうになった。
しかし、子どもの頃から成績不振で、大学に進学せず、〝菓子職人〟になり、父親を失望させ続けてきたことを考えると、結婚一つでそんなに上機嫌になってもらえるのなら、許容するしかないような気もする。
父も母も、達也の障碍については知らない。難読による成績不振は、単に怠惰からくるものだと思われていた。
もしかすると親父は、これでようやく俺が〝一人前〟になるとでも思っているのかもしれないしな……。
海外の製菓コンクールに入賞するより、一流ホテルのシェフ・パティシエになるより、結婚のほうが、父にとっては分かりやすく「上出来」なのだろう。
複雑な思いが胸をかすめたとき、勝手口の扉が解錠される音がした。表から二階に通じる階段をとんとんと上る音が響く。涼音が帰ってきたのだ。
仕上げは二階のキッチンですることにして、達也はブイヤベースの鍋とアーティチョークのサラダを、料理用の昇降機(リフト)に載せた。それから自分も階段を上って二階へ向かう。
「お帰り」
玄関先の涼音に声をかけると、意外そうに見返された。
「あれ? 達也さん、今日は早かったんだね」
その眼元に、微かな隈が浮いている。スーツ姿の涼音は、随分疲れているようだった。身体がいくつあっても足りないと思っているのは、恐らく涼音も同様なのだろう。
改めて「ただいま」を言った涼音の鼻が、ふと、くんくんとうごめく。
「なんだか、すっごく、いい匂い」
クイニーアマンの濃厚なバターの香りが、二階にまで漂っていた。
「達也さん、もしかして、ケーキ焼いてくれたの?」
興奮したように問いかけられ、達也は深く頷く。
「今日は特別な日だからね」
その途端、薔薇の花が咲くように、蒼白かった涼音の頬にぱっと血の気が差した。
「覚えててくれたんだ」
「当り前だろう。早く、楽な格好に着替えておいでよ」
どんなに忙しくたって、パートナーの誕生日を忘れるほど、自分は無粋ではないつもりだ。
「ありがとう。手、洗ってくる!」
涼音がばたばたと洗面所に駆けていくのを見送り、達也はキッチンに入った。リフトから鍋とサラダを取り出し、料理の仕上げに入る。アーティチョークのサラダにパルメザンチーズを散らし、バケットを切った。冷えた白ワインも用意する。
リビングのテーブルに白いクロスをかけ、コップに活けたカスミソウを中央に置き、少し華やかにセッティングをした。