老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 草むらに、小さな明かりが点滅する。橄欖石(ペリドット)を思わせる澄んだライトグリーンが、すうっと空(くう)に線を引く。
 蛍だ。
 更衣室の小窓をあけ、遠山(とおやま)涼音(すずね)は暫し優美な飛翔に見惚れた。
 涼音が勤める桜山(おうざん)ホテルでは、毎初夏、「蛍の夕べ」というイベントを開催している。朱塗りの弁慶橋がかかる沢、大小の池、稲荷神社を擁する約二万坪の広大な日本庭園では、五月から六月にかけて、たくさんのゲンジボタルが飛び交う。
 どこかから持ってきた蛍ではない。
 ガーデンスタッフが、庭園内のビオトープで産卵から手塩にかけて育ててきた蛍たちだ。近隣の小学校には、この「蛍の夕べ」で、初めて蛍を見たという都会育ちの子どもたちが大勢いる。都心で、これほど自然に近い形で蛍を観賞できる場所は稀少だ。
 六月に入ったばかりのこの日も、数時間前まで、提灯を片手に蛍を追う子どもたちの歓声が、庭園内に響き渡っていた。イベント期間中、バンケット棟のレストランも、ホテル棟のラウンジも大賑わいだ。
 こんな忙しい時期に、申し訳なかったかな……。
 涼音は窓辺にもたれ、静かに明滅している蛍を見つめる。闇を照らすほのかな光は、なんとも幻想的だ。
 レストランもラウンジもクローズしたこの時間は、庭園内には宿泊のゲストしかいない。だが実際、蛍の飛翔が活性化するのは深夜近くになってからだ。二十二時を過ぎた現在、数匹の蛍が沢を離れ、更衣室近くの草むらにまでやってきてくれた。
 あえかな点滅が、送別の歌として愛唱される「蛍の光」を連想させる。
 ホテルのシンボルカラーである桜色のスカーフを外し、涼音は一つ息をついた。
 本格的なアフタヌーンティーを日本で初めて提供したといわれるラウンジに憧れ、桜山ホテルに新卒入社してから約十年。
 今日は、涼音がラウンジスタッフとして出社した最後の日だ。
 明日からは有給休暇の消化に入るので、一緒に働いてきたラウンジスタッフや、調理班のシェフたちと再び会うのは、月末に予定してもらっている送別会ということになる。
 さあ、そろそろいこう。
 涼音は窓辺から離れ、クラシカルな黒のワンピースを脱いだ。明日から、この制服に袖を通すこともない。涼音の心に一抹の寂しさが湧いた。
 きらめく銀色の三段スタンドのお皿に盛られた宝石のような小型菓子(プティ・フール)、焼き立てのスコーン、フィンガーサイズの上品なサンドイッチ――。香り高い紅茶と共に饗される、究極の〝おやつ〟。
 アフタヌーンティーのメニュー開発に携わりたくて、桜山ホテルに入社したのに、当初、涼音はバンケット棟の宴席係に配属された。念願かなってラウンジスタッフになれたのは、七年後のことだった。
 あれから三年。瞬(またた)くように、しかし、濃密にときは過ぎた。
 アフタヌーンティーブームの先駆けとなったラウンジで、先輩から、同僚から、シェフたちから、そしてゲストから、涼音は多くのことを学んできた。彼ら彼女らのお陰で、悔いなく精一杯働くことができた。
 その学びを糧に、涼音は今後、新しい夢に向かう。
 引き継ぎマニュアルの最終確認をしていてこんな時間になってしまったが、これ以上ぐずぐずしていると、ラウンジのクローズ作業を終えた同僚たちが戻ってくる。そうしたら、益々ここから離れ難くなるだろう。
 蛍の光、窓の雪……。
 心の中で歌いながら、ワンピースをクリーニング用の袋に入れ、ロッカーの扉を閉めた。
 この日、涼音は、桜山ホテルを卒業する。

 地下鉄に接続する私鉄に揺られ、都心から約三十分。各駅停車の普通電車しかとまらない小さな駅で、涼音は私鉄を降りた。駅の周辺に大きな建物はなにもない。ロータリーもバス乗り場もなく、改札を出るとすぐに、個人店やスーパーが軒を連ねる昔ながらの商店街が続いている。
 二十五時まであいているスーパーの前を通り、涼音は商店街を歩き始めた。ここから十分ほどいったところに、涼音の新天地がある。
 やがて、大きなムクロジの木が見えてきた。青々と葉を茂らせたムクロジの枝の所々に、淡い緑色の花が咲いている。細かな花は夜風にはらはらと散り、木の下に小さな花だまりを作っていた。
 ムクロジの木のすぐそばの、通りに面した古民家風の一軒家の前で、涼音は足をとめた。入り口は二つある。一つは庇(ひさし)のある大きな玄関。もう一つはお勝手口のような小さな扉だ。
 トートバッグから鍵を取り出し、涼音は小さな扉をあけた。ドアが開くと、眼の前に細い階段が現れる。とんとんと階段を上り、二階にたどりつくと、その玄関に鍵はかかっていなかった。
「ただいま」
 扉を押し開けば、温かな照明が涼音を包み込む。廊下の先から足音が響いた。
 

 

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