老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

「おかえり」
 普段着姿の飛鳥井(あすかい)達也(たつや)が、手拭いで手をふきながら現れた。
「ごめんね。引き継ぎマニュアルをチェックしてたら、結局、こんな時間になっちゃった」
「お疲れさま。夕飯食ってないだろ?」
 そう言う達也の背後から、なんともいえずいい匂いが漂ってくる。
「もしかして、待っててくれたの? 先にすませてくれてよかったのに」
「いや、今日は俺も結構遅かったから」
 靴を脱ぎながら、涼音は鼻をうごめかせた。
「んー、いい匂い」
 これは多分、ローリエの香り。
「ミネストローネ!」
 涼音が声をあげると、「当たり」と達也が親指を立てた。そう聞いた瞬間、忘れかけていた空腹感が込み上げる。
 パプリカ、ニンジン、タマネギ、ズッキーニ……。細かく刻んだ旬の野菜をどっさり入れた達也特製のプロヴァンス風ミネストローネは、涼音の大好物の一つだ。思えば、三時過ぎにラウンジの賄いのサンドイッチを口にして以来、七時間以上なにも口にしていない。
「手、洗ってくるっ」
 ばたばたと廊下を走り出せば、
「慌てなくてもミネストローネは逃げないぞ」
 と、からかうような達也の声が背後から追いかけてきた。
 涼音は洗面所で手を洗い、廊下の奥の部屋に入り、急いで部屋着に着替える。暫定的に涼音に割り当てられている部屋には、まだ、あちこちに段ボールの箱が積まれていた。 
 ゴールデンウイーク明けに、涼音は達也と一緒に見つけたこの物件に引っ越してきた。そろそろ一か月が経とうとしているが、退職準備に追われ、未だ全部の荷ほどきが終わっていない。
 達也が南仏プロヴァンスの果樹園つきパティスリーで三年間の修業を終え、日本に戻ってきたのは今年の春先だ。
 一緒に自分たちのパティスリーを作る。
 その日から、涼音は達也と共に、本気で新しい夢を追うことになった。
〝初めてだから気張るのは分かるけど、別に妙な爪痕とか残そうとしなくていいからさ〟
 ふと、涼音の脳裏に、アフタヌーンティーのメニュー開発のプレゼンに、初めて挑んだ日のことが甦る。
〝こんな分厚い企画書、読んでも全然頭に入ってこないよ〟
 涼音入魂の企画書にあっさりと駄目出しをしたのは、当時、桜山ホテルアフタヌーンティーチーム調理班のチーフ、三十代の若きシェフ・パティシエだった達也だ。
 正直に言って、最初の印象は最悪だった。
 真っ白なパティシエコートに身を包み、企画書を突き返してくる達也の傲岸な様子が昨日のことのように目蓋に浮かび、涼音は思わず苦笑する。 
 もっとも、それは達也とて、同じことだったろう。
 当時、達也が最も触れられたくないと思っていた部分に、涼音は土足で踏み込んでしまったことがある。余計な気遣いをするなと激しく拒絶され、さすがに落ち込んだ。
 それでも、バックヤードや配膳室(パントリー)の片隅で、或いはラウンジで、何度も意見をぶつけ合ったり、ときには助け合ったりするうちに、自分たちがどこか似ていることに気がついた。
 互いに少々配慮に欠けるところはあったけれど、真っ直ぐで、我武者羅で、なにより、心からお菓子を愛していた。