日本独自の「家制度」

明治時代に作られた民法は、ドイツを中心に諸外国の影響を強く受けたものでしたが、そのうちの家族法については、日本独自の「家制度」を設けていました。

「家制度」のもとでは、戸主の力が極めて強く、結婚した女性は無能力者(契約などの法律行為を単独では行えない人)であると位置づけられていました。

『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(著:神野潔/日本能率協会マネジメントセンター)

1947年5月に新たに施行された日本国憲法のもとでは、このような女性の人権を無視した「家制度」は当然ながら認められず、大幅な改正が必要だったのです。

また、関連して、「個人の尊厳と両性の本質的平等を基本として、家庭の平和と健全な親族共同生活の維持を図ること」を目指して、家事審判法の制定が進められました。

この家事審判法に基づいて、「家庭内や親族の間に生じた争の事件や争でない重大な事柄の事件をやさしい手続きで、早く、親切に、しかも、適切に処理する家庭事件専門の裁判所」として、1948年1月に地方裁判所の支部として家事審判所が設置されます。

嘉子の正直な気持ちとしては、裁判官になれなかったことへの不満もありました。とはいえ、ここで進められた改正・立法作業は、「家制度」を廃して個人の自立を進めるものであり、嘉子はそれに関わることに大きなやりがいも感じていたといいます。

なにより、この時代に得た関心・知識・経験が、後に家庭裁判所の発展に力を尽くすようになる嘉子の人生に、大きな影響を与えていくのです。