嘉子の基礎になった最高裁判所での仕事
1948年1月、嘉子は発足したばかりの最高裁判所の事務局(現在の事務総局)民事部に移ります。
関根小郷・内藤頼博など、親切な上司・先輩たちからの様々な教えを受け、「裁判官としてどのような心構えで裁判をすべきか」ということはこの時代に培われたと、後に嘉子は語っています。
さらに、1949年1月、全国に家庭裁判所ができると(家庭裁判所は、先に述べた家事審判所と、戦前から存在し司法省が管轄していた少年審判所とを統合して、全国49箇所<地方裁判所の数と同じ>に置かれたものです)、最高裁判所の中に、家庭裁判所の設立に尽力した宇田川潤四郎を局長とした家庭局ができ、嘉子はそこに所属することになりました。
嘉子はここで、親族法・相続法・家事審判関係の法律問題や司法行政上の事務などと向き合う日々を送っていきます。
この時代の仕事を通して得た知識や経験もまた、後に家庭裁判所の発展に邁進することになる、嘉子の基礎となりました。
この時代、『主婦と生活』や『婦人倶楽部』といった雑誌に、家族法関係の簡単な解説(遺産の分け方、親権を失う場合など)を書いたり、インタビューに答えたりもするようになります。
新しい法律、新しい制度を市民に啓蒙する役割を、積極的に担っていこうとしていた様子がうかがえます。