男女を超えた生き物としての結びつき
それにしても、千紗子がなぜ、犯罪といえるような嘘をついてまで少年を匿ったかが明かされていく後半、いつの間にか私は反感を持っていた千紗子に感情移入している自分に気づいた。私は還暦を前にした最近、やっと子どもというものを愛しく感じるようになってきたのだが、母性に目覚めた女にとっての子どもは、男よりはるかに愛しいものだと思う。
映画の中では父と娘。母と子に焦点を当てるためか、千紗子の子どもの父についても、なぜ夫がいないかもほとんど語られない。でも、それはある意味「どうでもいいこと」だからなのだろう。
子どもを得るまで「男が世界のすべて」という女性もいるだろう。けれど一度母となると女には、まして息子を持ったなら、「子どもが世界の全て」になる。女の子では、ここまでにならない。娘は母にとって半分は夫との愛情を奪い合うライバルにもなるからだ。しかし、息子は特別だ。息子は、夫との関係では満たされない愛情関係とは違い、完全なる信頼と依存で女を満たしてくれる、完璧な恋人になりうるからだ。
「息子」を失った母親が元夫と破綻することは容易だろう。また、失われた世界を取り戻すためなら、女は狂気じみた労力を注ぐに違いない。「お母さん」と呼ばれることは、どんなに甘い言葉を恋人に囁かれることよりも甘美だ。其れは、性的な欲望とは全く異った愛情であり、男女を超えた生き物としての結びつきだからだ。
そういえば、例えばカマキリは交尾のあと、メスに食べられてしまうという。自然界において「オス」は「メス」と子どもを守り、「メス」に命を宿すためのきっかけでしかない宿命を持つ種もいる。そしておそらく女にとっては、社会のルールやオスとの関係よりも、息子との世界が重要なのだ。
だから息子という「幻想の楽園」を得るために、千紗子は社会のルールを容易に飛び超えてしまうのだろう。
また、「娘」という生き物にとっての「父親」も特別に甘美な恋人にもなりうる存在だ。娘は父親を絶対的な信頼を寄せる相手として依存し、愛を求めるので、やはり特別に甘美な関係を作りえる。逆にその関係が甘美になりえなかったとき、娘は父を激しく憎悪するか、その関係を補完するために年上の恋人を求めることになるのだろう。